友を想う詩! 渡し場
詩の舞台(古里)を求めて
1.  ハイデルベルク舞台旧来説
新設:2021-09-01
更新:2023-06-30
猪間驥一は1956年9月13日の朝日新聞「声」欄への投書「老来五十年 まぶたの詩」に応えた読者からの手紙などで得た情報から、詩「渡し場」の舞台はネッカー川が流れるハイデルベルクであると理解した。

そして、1961年に欧州留学の機会を得た猪間はハイデルベルクも訪ね、留学記録を『折り鶴の旅』(私家本)として1962年8月に出版した。その144-5頁に概ね次のように記されている。「私はハイデルベルクに来た直後に、哲学者の道の西半分を歩き、心うたれるものを発見した。百貨店などの寄贈したベンチが多い中に、ただひとつ、この大学で勉強して成業の後に間もなく亡くなった人の記念のために捧げられたベンチである。貼られた銅板にきざまれた年令は28才、寄贈者の名は女性名でロンドンよりとある。お母さんか、奥さんかはわからない。私はそこに腰をかけて、ネッカー川の渡し舟が、暮れゆく川面を幾たびか往復するのを見おろしていた。

一方、猪間著『なつかしい歌の物語』によると、1961年11月にミーリッシュ夫妻から届いた楽譜の表紙を飾った写真を「ハイデルベルク古橋の川下にあるロールマンの渡し場」と紹介し、この写真の脚注に「ローマの渡し」と記した。このことからハイデルベルクの1911年の古地図を見ると「テオドール・ホイス橋」の川下に二重点線で「Römer Brücke」が描かれ、1830年の古地図では現在のテオドール・ホイス橋相当地点の川上に二筋の「渡し」が描かれている。猪間のいう「ローマの渡し」や「ロールマンの渡し場」は、猪間が哲学者の道から見おろした「渡し舟」と同じであるに違いない。「ローマの渡し」は「古橋」の川下でテオドール・ホイス橋の川上にあったものといえる。

猪間の教え子である丸山明好は、1988年にドイツのフランクフルトへ行く機会があったとき、ハイデルベルクまでは特急列車で1時間ほどの距離であったので、1976年4月11日のドイチェ・ヴェレの日本語放送が流した『ウーラントの「渡し場で」という歌を知っていますか?』の録音テープに収められている盲目の歌手アロイス・ヴィーナが歌うカール・レーヴェ作曲「渡し」をネッカー川の岸辺でしみじみと聴こうと思い、ハイデルベルク駅を下車した。しかし、下車直後にテープレコーダー、カメラなどを収めたアタッシュケースを盗まれてしまい、思いを果たせなかった。その2日後に警察がフランクフルトのホテルに盗まれた録音テープ、書類およびアタッシュケースを届けて呉れたという。後に丸山は「ウーラント同“窓”会」創設時に会員となった。

「ウーラント同“窓”会」創設に深く関わった松田昌幸は、カール・レーヴェが「渡し場」を作曲した「渡し」の楽譜を入手できホッとしたき、ウーラントの子孫と同じ渡し舟に乗ってネッカー川を渡ったら面白そうだ!……と思いついた。しかし、調べていくとウーラントに子供がいない可能性が大きいと判り、この夢はいとも簡単に消えた。しかし「渡し場」の舞台と思っていたハイデルベルクとウーラントの生没地のテュービンゲンを訪ねたいとの願いが強くなり、2008年5月27日~6月7日の予定で知人と一緒にドイツに向い、ハイデルベルクでは哲学者の道から、古橋とテオドール・ホイス橋間のネッカー川を眺めた。奇しくも約半世紀の47年を経て、猪間が「清楚な散歩道」と評した「哲学者の道」からネッカー川を見おろしたことになる。

猪間驥一著『折り鶴の旅』表紙

ハイデルベルク城から旧市街、ネッカー川、古い橋を望む  2001年6月14日撮影
ハイデルベルク城から旧市街
ネッカー川(左下流、右上流)
古橋(右端)、テオドール・ホイス橋(左端)
撮影:2001-06-14


テュービンゲン大学にあるウーラント銅像
撮影:2008年 松田昌幸