友を想う詩! 渡し場
友を想う詩! 渡し場
舞台を求めて
新設:2021-09-01
更新:2021-09-14

下掲の1~4から それぞれの掲載箇所にリンクします
3.詩の舞台ホーフェン説の確定】是非ご覧下さい
(参照:右/下の航空写真から別ウィンドウで開くPDF)

1.旧来のハイデルベルク舞台説
2.ホーフェン舞台説の手掛かり
3.詩の舞台ホーフェン説の確定
4.渡し舟小屋案内板説明文和訳

1.旧来のハイデルベルク舞台説

猪間驥一は1956年9月13日の朝日新聞「声」欄への投書「老来五十年 まぶたの詩」に応えた読者からの手紙などで得た情報から、詩「渡し場」の舞台はネッカー川が流れるハイデルベルクであると理解した。 そして、1961年に欧州留学の機会を得た猪間はハイデルベルクも訪ね、留学記録を『折り鶴の旅』(私家本)として1962年8月に出版した。その144-5頁に概ね次のように記されている。「私はハイデルベルクに来た直後に、哲学者の道の西半分を歩き、心うたれるものを発見した。百貨店などの寄贈したベンチが多い中に、ただひとつ、この大学で勉強して成業の後に間もなく亡くなった人の記念のために捧げられたベンチである。貼られた銅板にきざまれた年令は28才、寄贈者の名は女性名でロンドンよりとある。お母さんか、奥さんかはわからない。私はそこに腰をかけて、ネッカー川の渡し舟が、暮れゆく川面を幾たびか往復するのを見おろしていた。
一方、猪間著『なつかしい歌の物語』によると、1961年11月にミーリッシュ夫妻から届いた楽譜の表紙を飾った写真を「ハイデルベルク古橋の川下にあるロールマンの渡し場」と紹介し、この写真の脚注に「ローマの渡し」と記した。このことからハイデルベルクの1911年の古地図を見ると「テオドール・ホイス橋」の川下に二重点線で「Römer Brücke」が描かれ、1830年の古地図では現在のテオドール・ホイス橋相当地点の川上に二筋の「渡し」が描かれている。猪間のいう「ローマの渡し」や「ロールマンの渡し場」は、猪間が哲学者の道から見おろした「渡し舟」と同じであるに違いない。「ローマの渡し」は「古橋」の川下でテオドール・ホイス橋の川上にあったものといえる。

猪間の教え子である丸山明好は、1988年にドイツのフランクフルトへ行く機会があったとき、ハイデルベルクまでは特急列車で1時間ほどの距離であったので、1976年4月11日のドイチェ・ヴェレの日本語放送が流した『ウーラントの「渡し場で」という歌を知っていますか?』の録音テープに収められている盲目の歌手アロイス・ヴィーナが歌うカール・レーヴェ作曲「渡し」をネッカー川の岸辺でしみじみと聴こうと思い、ハイデルベルク駅を下車した。しかし、下車直後にテープレコーダー、カメラなどを収めたアタッシュケースを盗まれてしまい、思いを果たせなかった。その2日後に警察がフランクフルトのホテルに盗まれた録音テープ、書類およびアタッシュケースを届けて呉れたという。後に丸山は「ウーラント同“窓”会」創設時に会員となった。

「ウーラント同“窓”会」創設に深く関わった松田昌幸は、カール・レーヴェが「渡し場」を作曲した「渡し」の楽譜を入手できホッとしたき、ウーラントの子孫と同じ渡し舟に乗ってネッカー川を渡ったら面白そうだ!……と思いついた。しかし、調べていくとウーラントに子供がいない可能性が大きいと判り、この夢はいとも簡単に消えた。しかし「渡し場」の舞台と思っていたハイデルベルクとウーラントの生没地のチュービンゲンを訪ねたいとの願いが強くなり、2008年5月27日~6月7日の予定で知人と一緒にドイツに向い、ハイデルベルクでは哲学者の道から、古橋とテオドール・ホイス橋間のネッカー川を眺めた。奇しくも約半世紀の47年を経て、猪間が「清楚な散歩道」と評した「哲学者の道」からネッカー川を見おろしたことになる。

猪間驥一著『折り鶴の旅』表紙

ハイデルベルク城から旧市街、ネッカー川、古い橋を望む  2001年6月14日撮影
ハイデルベルク城から旧市街
ネッカー川(左下流、右上流)
古橋(右端)、テオドール・ホイス橋(左端)
撮影:2001-06-14


チュービンゲン大学にあるウーラント銅像
撮影:2008年 松田昌幸
2.ホーフェン舞台説の手掛かり

学生時代からウーラントに関心を持っていた釜澤克彦は、2017年1-2月頃 北大東京同窓会から届いた案内で 同会主催の3月度「エルム談話室」で 松田昌幸が『人生の渡し場』と題して講演することを知った。

釜澤は、演題とウーラントの詩に興味を抱いて Webで調査を行ったところ ウーラント作「Auf der Überfahrt」に辿り着き 多分この詩にまつわる話ではと思った。

さらに、Web検索を続け ドイツの Webサイト「Stuttgart im Bild」のうち「Burgruine Hofen」が この詩に言及し、しかも 詩の舞台がシュトゥットガルト(Stuttgart)のホーフェン(Hofen)城の廃墟などであることも知ったことから、同年3月3日に松田の講演を聴講後に、この詩の舞台はハイデルベルクではなく、別の場所[ホーフェン(Hofen)]ではと松田に伝えた。

やがて4年の歳月が経とうとする2021年になってから、 釜澤はウーラントの詩「渡し場」に関心を持ち続けていたので Webで再調査したところ、次の「詩の舞台ホーフェン説の確定」記載の新たな展開があったことを知り松田に伝えた。そしてウーラント同“窓”会の会員となった。


新渡戸稲造 (1862-1933)
国立国会図書館デジタルライブラリーより
3.詩の舞台ホーフェン説の確定 *印はWebサイト「Bürgerverein Hofen e.V.」へ リンク

2017年10月25日に シュトゥットガルト(Stuttgart)ホーフェン(Hofen)地区の民間団体(Bürgerverein Hofen e.V.)が、ネッカー(Neckar)川に架かる「ホーフェナー橋」南東詰のホーフェン側渡し場跡に「FÄHRHAUS HOFEN」(ホーフェンの渡し舟小屋)という案内板を設置除幕した。*(ココから除幕時アルバムにリンク)

この案内板は、ウーラント作「Auf der Überfahrt」を紹介し、さらに「二人の友」と「渡し舟」を説明するもの。案内板のPDFファイルを*ココから ダウンロードでき、ホーフェン城廃墟のアルバムに*ココからリンクする。
なお、案内板説明文を 釜澤の和訳にて「渡し舟小屋案内板説明文和訳」で紹介する。

シュトゥットガルトは、1871年の統一ドイツが生まれるまで、ヴュルテンベルク(Württemberg)王国(1805年までは公国)の首都であった。ウーラントの生没地チュービンゲン(Tübingen)も同ヴュルテンベルク王国(1805年までは公国)に属していた。

ウーラント夫人(Emma Uhland)著『ウーラント伝(Ludwig Uhlands Leben)』によると、ウーラントは1812年12月16日から1829年4月までの17年5ヶ月をシュトゥットガルトに住み、1820年5月29日にエマ夫人と結婚した。

シュトゥットガルト市Webページ「Ludwig Uhland - Wohnhaus 1820 und 1821-1827」によると、ウーラント夫妻は同市内 Friedrichstraße 27 のコンラート館(Conradischen Haus) に1827年まで居住した。

ホーフェンの渡し場跡に建てられた案内板の説明によると、この詩に登場する「父のような友」は母方伯父のクリスチャン・エバーハート・ホーザーであってホーフェン東南のシュミーデン(Schmiden)に住んでいた。また「若く希望あふれる友」はウーラントの学友・ハーププレヒトであった。この3人がシュトゥットガルト市中心部北辺のフォイアーバッハ(Feuerbach)地区(Walterstraße 16)に住む父方伯母のシュミート(Schmid)をシュミーデンから訪ねるとき、ホーフェン経由が最短距離となるので、ホーフェンの渡し舟を往復とも使っていたという。

ホーフェン対岸のミュールハウゼン(Mühlhausen)に隣接するフォイアーバッハ(Feuerbach)は同名であるが、教会がない集落で伯母の居住地ではなかった。

そして、ウーラント夫人が同『ウーラント伝』の中で「一人旅の帰途ネッカー川を渡るとき…深い愛情のこもった詩を生んだ」と記していることは、実際に起こったことを基に「Auf der Überfahrt」を詠んだものと思われる。

従って ホーフェンがウーラント作「渡し場」・「Auf der Überfahrt」の舞台であるとするホーフェン民間団体(Bürgerverein Hofen e.V.)の主張は説得力がある。

これにより、ウーラント作「渡し場」が詠う[渡し場]と[城]は、ウーラント生没地・チュービンゲン(Tübingen)の北方30㎞でネッカー川下流に当たるシュトゥットガルト(Stuttgart)市北東のホーフェン(Hofen)地区にあるホーフェナー橋南東詰「渡し舟小屋がある場所」と「ホーフェン城廃墟」に違いないと、釜澤は確信するに至った。

釜澤は、以上の諸関係箇所を一覧できるように Google地図上に表示した 「シュトゥットガルト市と Hofen 城址 - ウーラント「渡し場」関連図」および「渡し舟小屋」と「案内板」の位置を Google 地図上に明示した「ホーフェンの渡し場」跡の近況』を作成し PDFファイルとした。各々のPDFには右掲載画像からもリンクする。

外部Webサイト掲載の『ウーラント日記 1810-1820 (Uhlands Tagebuch 1810-1820)』を基に、ウーラントの親族~詩「渡し場 (Auf der Überfahrt)」関連部分のみ~』を作成し PDFファイルとした。PDFには右掲載画像からもリンクする。

[注]
①ウーラント夫人)著『ウーラント伝(Ludwig Uhlands Leben)』は、「プロジェクト・グーテンベルク」から閲覧でき、ココからリンクする。
②Google のストリートビューで ホーフェナー橋周辺をみると、橋には堰が併設され LRTの線路が歩道付車道に並んでいることなどがわかる。

シュトゥットガルト市と Hofen 城址
ウーラント「渡し場」関連図

画像クリックで大きなPDFが開きます


「ホーフェンの渡し場」跡の近況
「渡し舟小屋」と「案内板」の位置

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ウーラントの親族
詩「渡し場 (Auf der Überfahrt)」
関連部分のみ

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渡し舟小屋案内板説明文和訳

説明文はヴォルフガング・ツヴィング(Wolfgang Zwinz)によるドイツ語原文を釜澤克彦が和訳した。説明文の和訳を3つの部分(左側、中央、右側)に分けて掲げる。

1.左側説明文の和訳

1935年の堰を備えた橋の完成以前は、渡し小屋からネッカー川までの高度差は1.5から2メートル、距離は24メートルであった。

今も戸口の梁に読み取れる1813年という数字は、おそらくこの小屋の建設年であろう。入口ドア枠の洪水水位のマークは、ネッカー川の改修以前は何世紀にもわたり、ネッカー川の洪水が谷間の建物を水浸しにしていた。今はほとんど読めない渡し小屋のマークは 1851、1853、1870、1882、1906、1919 そして 1931年のもの。それ以前の世紀のものはどこにも記されておらず、おそらく以前の建物撤去の際に失われたと思われる。

すでに1350年にはホーフェンにおける「渡し」の記録が残っている。渡しの営業からエバーハート一世伯は年3シリングの用益料を徴収していた。「Fergen(船頭)」と呼ばれた渡し守は伯爵の雇い人たちを無料で渡すよう義務付けられていた。

王室の道路・橋・水利事業部局により馬車の渡しも整備され 1811年10月15日開通する。総費用は1556グルデン30クロイツァーに達した。

[注]
現在の渡し小屋、渡し守アドルフ・ラウ1930年、1910年頃の旅客用渡し舟の各写真が、現地案内板に掲載されている


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1813年建造と思われる「渡し舟小屋」
現在、右側面と屋根は蔦で覆われている

「渡し舟小屋」入口部分拡大
ドア枠右に洪水の高さが刻まれている
2.中央説明文の和訳

渡しの舟はカンシュタット Cannstatt の王室事務所からホーフェンのマテス・ローラー Mathes Rohrer に年85グルデンで貸し出された。渡し守は当時106人のホーフェン住民やミュールハウゼン、エフィゲンの住民から渡し賃として決まった量の農作物を徴収していた。他の旅行者は1~2クロイツァーを払っていた。

夏季は5時から22時、冬季は6時から21時の営業だった。稼働していたのは旅客用の舟と馬車輸送用の舟だった。マテス・ローラーの他に渡し守としてはリヌス・シュテッター Linus Stetter、ヨーゼフ・ウーバー Joseph Uber、ヨーゼフ・トライバー Joseph Treiber がいたことが知られている。リヌス・シュテッター(1857-1897)はヴォルフ牧師がこの渡し守と結んだ契約で言及されている。彼は年100マルクを受け取るかわりに福音派のミュールハウゼンからカトリックの子供や大人を無料でネッカーを越えさせ、この人たちがホーフェンでカトリックの宗教授業つまりミサに参加できるようにしなければならなかった。最後の渡し守はアドルフ・ラウで、1924年から1933年まで渡し守だった。1934年ネッカー堰と橋の建設とともに渡しの営業は停止された。渡し小屋は現在私有ととなっている。

渡しのあった頃多くの人や物資が渡されたネッカー川辺の活気ある生活は、時に寒気や凍結、大水などもあったがホーフェンの人たちには大事な生活の刺激であるだけでなく、出会いの場でもあった。

[注]
1912年頃の渡し場、1930年の渡しの各写真が、現地案内板に掲載されている




渡し舟のイメージ
3.右側説明文の和訳

ヨハン・ルードウィッヒ “ルイ” ウーラント(1787.4.26 チュービンゲン生まれ、1862.11.13 チュービンゲン没)ドイツの詩人、文学研究者、法律家、政治家  
[注]
詩文「Auf der Überfahrt (渡し場)」の掲載を省略

渡し場 ― そしてこの詩はどのように生まれたか:
ルートヴィヒ・ウーラントは 1823年おそらく最後の機会としてホーフェンからミュールハウゼンに渡し舟でネッカー川を渡った。その際チュービンゲンの学友フリートリヒ・ハーププレヒトそして伯父クリスティアン・エバーハート・ホーザーと一緒にここを渡った若き日の思い出に激しく揺さぶられ、「渡し場」の詩を作った。
この詩に描かれた人物は大変興味深く、ここに紹介したい。

「前者は現世で静かに生き 静かに世を去った」というのはクリスティアン・エバーハート・ホーザーで、1753年チュービンゲン生まれ、1800年から1813年没するまでシュミーデン教区の牧師であった。彼はルートヴィヒ・ウーラントの名付け親であり母親の兄だった。ルートヴィヒ・ウーラントは若いころから友人フリートリヒ・ハーププレヒトと一緒によく伯父を訪ねていた。ルートヴィヒ・ウーラントと伯父のクリスティアン・ホーザーそして友人フリートリヒ・ハーププレヒトはフォイアーバッハで牧師ヨーハン・ゲオルク・シュミートに嫁いでいる父の姉ゴットリービン・シュミート(旧姓ウーラント)をよく訪れた。シュミーデンからフォイアーバッハへの散策に最短の行程はホーフェン経由でネッカー川の渡しを利用するものだった。

二人目の「…皆に先んじて奮闘し 戦いと嵐の中に倒れた…」同乗者は激動の人生と苛烈な運命を生きた。フリートリヒ・ハーププレヒトは 1788年シュトゥットガルトに生まれ、ヴュルテンベルクの著名な法律家一族の出身である。(ウーラントと)ともに法学を学び、ロマン派の詩作に熱中した。この二人の学生は互いをよく理解し多くの時間を共に過ごした。遠出や散策のとき二人はウーラントのシュミーデンに住む伯父など親戚を訪ねたりした。ウーラントが1808年5月学業を修了できたのに対しハーププレヒトは志願して軍人となった。1809年には早くも彼は多くのヴュルテンベルク兵とともにナポレオン側についてオーストリアと戦った。彼は二十才になったばかりの若い将校で、理想に燃え、激しやすく、誇り高く美しい青年であった。1812年9月7日 Moja での戦い(訳者注:ボロジノ会戦の日であり、付近の地名と思われる)で彼の軍歴は終末を迎えた。彼の右足が砲弾で打ち砕かれたのだ。それでも野戦病院では被弾した右膝上部から切断した。数名の部下の献身により奇跡的にベレジナ河を越えることはできた。そこから彼は介護も十分な衣服もなく馬でとぼとぼと進んだ。厳寒の中を4日間やっと味方に合流したとき彼は左足も凍傷になったことを指揮官の中将に平然と報告した。軍は Wilna に2日間留まったあと退却を余儀なくされ、彼は取り残されるしかなかった。彼は25才の誕生日、1813年1月10日に亡くなった。

[注]
ウーラント肖像、H.ガイガーとF.シュライヒ、ミュールハウゼンに向かう渡し舟での結婚式の各写真が、現地案内板に掲載されている

以上は、釜澤が「FÄHRHAUS HOFEN (ホーフェンの渡し小屋)」と題した「案内板」にドイツ語で記された説明文を和訳のうえ作成した「日本語版」から引用した。案内板の日本語版PDFにココからリンクする。



ルートヴィヒ・ウーラント
Ludwig Uhland (1787-1862)

ホーフェン城址(想像図)
手前はネッカー川
傾斜地にあって左上部分は樹木が繁茂
樹木がない場合を想像して作成
往時は左外側に城の本体があったようだ