新設:2012-10-17
更新:2024-08-08
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々
略 歴
(まるやま あきよし)
昭和16年(1941) 新潟県で誕生
昭和39年(1964)3月 中央大学卒業
語り継ぎの足跡-1
昭和50年(1975)7月22日付朝日新聞(東京版)「声」欄に「思い出の歌によみがえりを」と題した鎌倉在住の医師・佐藤裕の投書が載った。このときは、猪間驥一による昭和31年(1956)の投書から19年後であったが、反響が大きく広がり、朝日新聞(東京版)は同9月15日に「投書を追って」欄で「”心の詩に”親しめる新曲を」の見出しを付けて、反響の一端を紹介した。その中に、猪間驥一の教え子のひとり・丸山明好が語る「渡し場」に関わる解説が次のとおりあった。
丸山明好さん (横浜市・会社員、34)
「渡し場にて」の作詩者は、ドイツのロマン派詩人、ルードウィッヒ・ウーラント(1787-1862)、口語訳したのは、元中央大学の故猪間驥一教授(統計学)で、ほかに二つの訳詩と、四つの曲がある。
「渡し場にて」
いく年前か この川を
一度わたった ことがある
いまもせきには 水どよみ
入り日に城は 影をひく
この小舟には あの時は
わたしと二人の つれがいた
お父さんにも 似た友と
希望に燃えた 若いのと
一人は静かに はたらいて
人に知られず 世を去った
もう一人のは いさましく
いくさの庭で 散華した
しあわせだった そのむかし
しのべば死の手に うばわれた
だいじな友の 亡いあとの
さびしい思いが 胸にしむ
だが友達を 結ぶのは
たましい同士の ふれ合いだ
あの時むすんだ たましいの
きずながなんで 解けようぞ
渡し賃だよ 船頭さん
三人分を 取っとくれ
わたしと一緒に 二人の
みたまも川を 越えたのだ
猪間先生が一高か東大生のころ、新渡戸稲造博士の”愛唱の詩”として覚えたが、どこの、だれの作とも知らず、晩年はほとんど忘れてしまった。そこで多くの人を訪ねて調べたが、どうしてもわからない。思い余って昭和三十一年九月十三日の本欄に『老来五十年 まぶたの詩』という一文を寄せた。
◇老人の日に、一老人の願いをきいていただきたい。次のような内容の詩をご存じ知の方はあるまいか。
◇渡船に乗って川を越そうとしている老人がある。何十年か前に、彼は親友と連れ立って、同じ渡しを渡ったことがあった。老人のまぶたの裏には、なつかしい亡友のおもかげが、そのかみの数々の思い出につれて浮かんでくる。
「着きましたよ」という船頭の声に、驚いて老人は立上がって渡し賃を払う。倍額ある渡し賃。「船頭さん、それだけとっておいて下さい。お前さんには、お客は一人しか見えなかったろうが、わたしは連れと一緒だったつもりだから」と老人がいった。
◇子供のころ読んだ。大きくなって外国語がわかるようになったら、読み直そうと思った。以来五十年、ついに会えないでいる。子を失い、友を失うこと多く、老来、この詩のこころをひしひしと感じることがしばしばである。これがどこの国のだれの詩か、何の本に出ているか、どなたか教えて下されば幸いである。
投書二日後の十五日は敬老の日で、猪間先生は六十歳の誕生日。その祝の宴に、投書の反響十数通が本社から届けられた。その中に探し求めていた独文の原詩が入っていた。四年後の昭和三十六年、猪間先生はヨーロッパの旅に出て、本場のドイツでウーラントの原譜を探したが見つからず、原譜ではないが四つの曲を集めて帰国した。そして四十四年春に他界された。
語り継ぎの足跡-2
昭和50年(1975)9月下旬~10月、丸山明好は、山岡望を自宅に訪ねガリ版刷の原詩を頂く外、同年9月15日付朝日新聞(東京版)「投書を追って」欄の「”心の詩に”親しめる新曲を」で投稿が紹介されたアルテンドルフが勧めるコルロイター教授(ゲーテInst..)を訪ねたが、「レーヴェの『渡し場』の曲は知らない」との回答であった。このため、丸山明好はアルテンドルフに手紙を送り「カール・レーヴェの『渡し場』の曲を探して欲しい」と、猪間驥一と「渡し場」の関わりの詳しい経緯と資料を添えてお願いした。
アルテンドルフらドイチェ・ヴェレは、丸山明好からの上述の手紙もあって、さらに調査を進め、先ず、昭和50年(1975)12月に、アルテンドルフからレーヴェ作曲の楽譜が丸山明好に届けられた。丸山明好は朝日新聞に楽譜を請求した方へ楽譜のコピーを送った。
以上のことを含め、その後のことは、次に掲げる丸山明好による昭和51年(1976)4月19日付朝日新聞(東京版)「声」欄投稿記事をご覧頂きたい。
昭和51年(1976)4月19日付朝日新聞(東京版)「声」欄に、丸山明好の「みつかった幻の歌の譜」と題した投稿が次のとおり掲載された。
みつかった 幻の歌の譜
横浜市 丸山 明好 (会社員 35歳)
昨年七月二十二日の本欄に「思い出の歌によみがえりを」と題した鎌倉市の佐藤さんの投稿「渡し場にて」が載りました。これは、元中央大学教授の故猪間驥一教授が幼少のころ知ったドイツの詩の原詩を知りたいと数十年来心にかけていたが、遂にわからず、二十年前本欄に投稿、呼びかけてやっと探し当てたまぶたの詩が「渡し場にて」でした。その後、猪間先生がその譜を探すためドイツに出かけたが、譜にはついにめぐり会えなかった。
私は猪間先生の教え子のひとりとして、先生の果たし得なかったまぶたの曲を探したいと思い、ドイチェ・ヴェレ(ドイツ海外放送)の日本語課長クラウス・アルテンドルフさんあて手紙を書いた。昨年暮れ同課長から、七月からの譜探しの経過の手紙といっしょに「ついにケルン大学音楽研究所のキュメリング博士の蔵書中からレーヴェ作曲の譜面が発見された」との手紙とコピーが送られてきました。
さらに今月はじめには「渡し場にて」の曲の録音が見つかったので、十一日夜の日本語放送番組の中で放送するとの手紙。またドイツ海外放送に勤める岸浩さんが所用で帰国したのでお会いし、その間の事情を詳しく知りました。
この「渡し場にて」の歌い手は盲目のバラード歌手アロイス・ヴィナー。東独の人で、以前はしばしば西ベルリン放送局に来て歌っていたが二十年前、東西ベルリンの壁が作られてからは往来できなくなり、いまは消息不明とのことです。私はその歌を聴いた。
人間の心の中に生じたさい疑心、憎しみのレンガが築いた心の壁は、ベルリンの壁となり、人間の往来を阻み、親子、兄弟、友人との生別、音信までとだえた哀感が切々と心に訴えかけるものだった。
戦友の死を想起されて「渡し場にて」を口ずさむ佐藤さんはじめ多くの人たち、もう二度と不幸は繰り返さないよう心が通い合う渡し場を思い浮かべてほしいと思います。この十六日は猪間先生のご命日、すばらしい供養になりました。あわせて絶版の譜や、二十数年前の録音を探しだして下さったアルテンドルフ課長に本欄を通じて感謝とお礼を申し上げます。
【参 考】
<「渡し場」の楽譜を求めての旅路>の第二章(1975~1998)~「渡し場」の舞台・ドイツを巻き込んでの探索~
語り継ぎの足跡-3
昭和51年(1976)4月19日、及川仙石の弟子・入村玲子が、同日付朝日新聞(東京版)「声」欄に載った丸山明好の「みつかった幻の歌の譜」と題した投書に心とまり、丸山明好に手紙を送ったことから交流が始まった。丸山明好は同年8月に寺泊に帰省した折に、柏崎にあるという及川仙石らが建立した「憩いの石」=「うつぎ句碑」を訪ねた。
また、丸山明好は、数年後の夏季休暇の帰省時に、及川仙石が建立した「歯塚」も訪ねている。
昭和51年(1976)6月9日、小谷慈明が朝日新聞(東京版)「声」欄に丸山明好の住所を照会し、永山三郎(朝日新聞記者)が丸山明好に電話にて小谷慈明宛に「幻の譜」を送って欲しいと依頼した。同年6月13日、丸山明好は小谷慈明に手持ち資料を送った。
丸山明好は、昭和50年(1975)9月15日、朝日新聞(東京版)に永山三郎が「投書を追って」欄に「心の詩に親しめる新曲を」と題して反響を掲載した折に、小谷慈明、アルテンドルフらと共に、その思いが紹介された一人であったこともあってか、小谷慈明との交流が現在まで続いている。
平成18年(2006)7月6日付朝日新聞(東京版)「窓 論説委員室から」欄に、『「渡し」にはドラマがある』を高成田享が執筆掲載したのが契機となり、朝日新聞の「窓」が媒介となった「絆」を深めるため、「第1回ウーラント同窓会」を平成18年(2006)年8月16日にプレスセンタービル内「アラスカ」で開催し、北原文雄、朽津耕三、小出健、小谷慈明、志田忠正、松田昌幸、丸山明好、高成田享が出席した。
平成19年(2007)2月11日 北原文雄が同年3月14日に「一高懇話会」で行う予定の講演《「友を憶う詩”渡し場にて”とその波紋」~新渡戸に始まる人生の渡し場系譜~》の講演原稿準備作業を、北原文雄、小出健、松田昌幸、丸山明好が松田昌幸宅に集って行った。
令和元年(2019) 99才で迎えた「敬老の日」2日前 9月14日(土)に北原文雄氏を訪問
千葉県佐倉市の老人施設に入居中のウーラント同"窓"会会員・北原文雄(写真中央)氏を 丸山明好(写真左)と中村喜一(写真右)が 2019年9月14日(土)に訪ね 約2時間歓談した
語り継ぎの足跡-4
ウーラント同“窓”会[編]『「渡し」にはドラマがあった ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』2022年1月14日 荒蝦夷 刊 に、次の2編を寄稿した。
第3章 投書がつくったドラマ
1 猪間驥一の投書とその波紋
第5章 それぞれの想い
#5 終生「渡し場」の心を持ち続けた入村玲子
令和4年(2022)1月17日 102歳の誕生日を迎えられた北原文雄氏を祝福訪問
北原文雄氏の102歳誕生日祝いと翌1月18日開催「『渡し場』出版記念会」へのメッセージを北原文雄から貰うため、実弟運転の自動車で北原を訪ねた。ガラス窓越しの対面であったが、施設の職員による細やかなサポートに支えられたもので、北原は102歳の誕生日に自ら発案の新刊本『「渡し」にはドラマがあった』を手にし感激ひとしおであった。