新設:2021-09-01
更新:2023-06-30
*印はWebサイト「Bürgerverein Hofen e.V.」へ リンク
2017年10月25日に シュトゥットガルト(Stuttgart)ホーフェン(Hofen)地区の民間団体(Bürgerverein Hofen e.V.)が、ネッカー(Neckar)川に架かる「ホーフェナー橋」南東詰のホーフェン側渡し場跡に「FÄHRHAUS HOFEN」(ホーフェンの渡し舟小屋)という案内板を設置除幕した。*(ココから除幕時アルバムにリンク)
この案内板は、ウーラント作「Auf der Überfahrt」を紹介し、さらに「二人の友」と「渡し舟」を説明するもの。案内板のPDFファイルを*ココから ダウンロードでき、ホーフェン城廃墟のアルバムに*ココからリンクする。
なお、案内板説明文を 釜澤の和訳にて「渡し舟小屋案内板説明文和訳」で紹介する。
シュトゥットガルトは、1871年の統一ドイツが生まれるまで、ヴュルテンベルク(Württemberg)王国(1805年までは公国)の首都であった。ウーラントの生没地テュービンゲン(Tübingen)も同ヴュルテンベルク王国(1805年までは公国)に属していた。
ウーラント夫人(Emma Uhland)著『ウーラント伝(Ludwig Uhlands Leben)』によると、ウーラントは1812年12月16日から1829年4月までの17年5ヶ月をシュトゥットガルトに住み、1820年5月29日にエマ夫人と結婚した。
シュトゥットガルト市Webページ「Ludwig Uhland - Wohnhaus 1820 und 1821-1827」によると、ウーラント夫妻は同市内 Friedrichstraße 27 のコンラート館(Conradischen Haus) に1827年まで居住した。
ホーフェンの渡し場跡に建てられた案内板の説明によると、この詩に登場する「父のような友」は母方伯父のクリスチャン・エバーハート・ホーザーであってホーフェン東南のシュミデン(Schmiden)に住んでいた。また「若く希望あふれる友」はウーラントの学友・ハーププレヒトであった。この3人がシュトゥットガルト市中心部北辺のフォイアーバッハ(Feuerbach)地区(Walterstraße
16)に住む父方伯母のシュミート(Schmid)をシュミデンから訪ねるとき、ホーフェン経由が最短距離となるので、ホーフェンの渡し舟を往復とも使っていたという。
ホーフェン対岸のミュールハウゼン(Mühlhausen)に隣接するフォイアーバッハ(Feuerbach)は同名であるが、教会がない集落で伯母の居住地ではなかった。
そして、ウーラント夫人が同『ウーラント伝』の中で「一人旅の帰途ネッカー川を渡るとき…深い愛情のこもった詩を生んだ」と記していることは、実際に起こったことを基に「Auf der Überfahrt」を詠んだものと思われる。
従って ホーフェンがウーラント作「渡し場」・「Auf der Überfahrt」の舞台であるとするホーフェン民間団体(Bürgerverein Hofen e.V.)の主張は説得力がある。
これにより、ウーラント作「渡し場」が詠う[渡し場]と[城]は、ウーラント生没地・テュービンゲン(Tübingen)の北方30㎞でネッカー川下流に当たるシュトゥットガルト(Stuttgart)市北東のホーフェン(Hofen)地区にあるホーフェナー橋南東詰「渡し舟小屋がある場所」と「ホーフェン城廃墟」に違いないと、釜澤は確信するに至った。
釜澤は、以上の諸関係箇所を一覧できるように Google地図上に表示した 「シュトゥットガルト市と Hofen 城址 - ウーラント「渡し場」関連図」および「渡し舟小屋」と「案内板」の位置を Google 地図上に明示した『「ホーフェンの渡し場」跡の近況』を作成し PDFファイルとした。各々のPDFには右掲載画像からもリンクする。
外部Webサイト掲載の『ウーラント日記 1810-1820 (Uhlands Tagebuch 1810-1820)』を基に、『ウーラントの親族~詩「渡し場 (Auf der Überfahrt)」関連部分のみ~』を作成し PDFファイルとした。PDFには右掲載画像からもリンクする。
[注]
①ウーラント夫人)著『ウーラント伝(Ludwig Uhlands Leben)』は、「プロジェクト・グーテンベルク」から閲覧でき、ココからリンクする。
②Google のストリートビューで ホーフェナー橋周辺をみると、橋には堰が併設され LRTの線路が歩道付車道に並んでいることなどがわかる。