新設:2021-09-01
更新:2023-06-30
ホーフェン地域居住の郷土史家ヴォルフガング・ツヴィンツ(Wolfgang Zwinz)氏が執筆したドイツ語による解説を、釜澤克彦が和訳した成果を、次の3つに分けて掲載
1.左側解説和訳
1935年の堰を備えた橋の完成以前は、渡し小屋からネッカー川までの高度差は1.5から2メートル、距離は24メートルであった。
今も戸口の梁に読み取れる1813年という数字は、おそらくこの小屋の建設年であろう。入口ドア枠の洪水水位のマークは、ネッカー川の改修以前は何世紀にもわたり、ネッカー川の洪水が谷間の建物を水浸しにしていた。今はほとんど読めない渡し小屋のマークは 1851、1853、1870、1882、1906、1919 そして 1931年のもの。それ以前の世紀のものはどこにも記されておらず、おそらく以前の建物撤去の際に失われたと思われる。
すでに1350年にはホーフェンにおける「渡し」の記録が残っている。渡しの営業からエバーハート一世伯は年3シリングの用益料を徴収していた。「Fergen(船頭)」と呼ばれた渡し守は伯爵の雇い人たちを無料で渡すよう義務付けられていた。
王室の道路・橋・水利事業部局により馬車の渡しも整備され 1811年10月15日開通する。総費用は1556グルデン30クロイツァーに達した。
[注]
現在の渡し小屋、渡し守アドルフ・ラウ1930年、1910年頃の旅客用渡し舟の各写真が、現地案内板に掲載されている
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1813年建造と思われる「渡し舟小屋」 撮影:2023-05-24
「渡し舟小屋」入口部分拡大
ドア枠右に洪水の高さが刻まれている
2.中央解説和訳
渡しの舟はカンシュタット Cannstatt の王室事務所からホーフェンのマテス・ローラー Mathes Rohrer に年85グルデンで貸し出された。渡し守は当時106人のホーフェン住民やミュールハウゼン、エフィゲンの住民から渡し賃として決まった量の農作物を徴収していた。他の旅行者は1~2クロイツァーを払っていた。
夏季は5時から22時、冬季は6時から21時の営業だった。稼働していたのは旅客用の舟と馬車輸送用の舟だった。マテス・ローラーの他に渡し守としてはリヌス・シュテッター Linus Stetter、ヨーゼフ・ウーバー Joseph Uber、ヨーゼフ・トライバー Joseph Treiber がいたことが知られている。リヌス・シュテッター(1857-1897)はヴォルフ牧師がこの渡し守と結んだ契約で言及されている。彼は年100マルクを受け取るかわりに福音派のミュールハウゼンからカトリックの子供や大人を無料でネッカーを越えさせ、この人たちがホーフェンでカトリックの宗教授業つまりミサに参加できるようにしなければならなかった。最後の渡し守はアドルフ・ラウで、1924年から1933年まで渡し守だった。1934年ネッカー堰と橋の建設とともに渡しの営業は停止された。渡し小屋は現在私有ととなっている。
渡しのあった頃多くの人や物資が渡されたネッカー川辺の活気ある生活は、時に寒気や凍結、大水などもあったがホーフェンの人たちには大事な生活の刺激であるだけでなく、出会いの場でもあった。
[注]
1912年頃の渡し場、1930年の渡しの各写真が、現地案内板に掲載されている
ホーフェン橋南東に発電所、北東に船舶用堰 撮影:2023-05-24
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3.右側解説和訳
ヨーハン・ルートヴィヒ “ルイ” ウーラント(1787.4.26 テュービンゲン生まれ、1862.11.13 テュービンゲン没)ドイツの詩人、文学研究者、法律家、政治家
[注]
詩文「Auf der Überfahrt (渡し場)」の掲載を省略
渡し場 ― そしてこの詩はどのように生まれたか:
ルートヴィヒ・ウーラントは 1823年おそらく最後の機会としてホーフェンからミュールハウゼンに渡し舟でネッカー川を渡った。その際テュービンゲンの学友フリートリヒ・ハーププレヒトそして伯父クリスティアン・エバーハート・ホーザーと一緒にここを渡った若き日の思い出に激しく揺さぶられ、「渡し場」の詩を作った。
この詩に描かれた人物は大変興味深く、ここに紹介したい。
「前者は現世で静かに生き 静かに世を去った」というのはクリスティアン・エバーハート・ホーザーで、1753年テュービンゲン生まれ、1800年から1813年没するまでシュミーデン教区の牧師であった。彼はルートヴィヒ・ウーラントの名付け親であり母親の兄だった。ルートヴィヒ・ウーラントは若いころから友人フリートリヒ・ハーププレヒトと一緒によく伯父を訪ねていた。ルートヴィヒ・ウーラントと伯父のクリスティアン・ホーザーそして友人フリートリヒ・ハーププレヒトはフォイアーバッハで牧師ヨーハン・ゲオルク・シュミートに嫁いでいる父の姉ゴットリービン・シュミート(旧姓ウーラント)をよく訪れた。シュミーデンからフォイアーバッハへの散策に最短の行程はホーフェン経由でネッカー川の渡しを利用するものだった。
二人目の「…皆に先んじて奮闘し 戦いと嵐の中に倒れた…」同乗者は激動の人生と苛烈な運命を生きた。フリートリヒ・ハーププレヒトは 1788年シュトゥットガルトに生まれ、ヴュルテンベルクの著名な法律家一族の出身である。(ウーラント)とともに法学を学び、ロマン派の詩作に熱中した。この二人の学生は互いをよく理解し多くの時間を共に過ごした。遠出や散策のとき二人はウーラントのシュミデンに住む伯父など親戚を訪ねたりした。ウーラントが1808年5月学業を修了できたのに対しハーププレヒトは志願して軍人となった。1809年には早くも彼は多くのヴュルテンベルク兵とともにナポレオン側についてオーストリアと戦った。彼は二十才になったばかりの若い将校で、理想に燃え、激しやすく、誇り高く美しい青年であった。1812年9月7日 Moja での戦い(訳者注:ボロジノ会戦の日であり、付近の地名と思われる)で彼の軍歴は終末を迎えた。彼の右足が砲弾で打ち砕かれたのだ。それでも野戦病院では被弾した右膝上部から切断した。数名の部下の献身により奇跡的にベレジナ河を越えることはできた。そこから彼は介護も十分な衣服もなく馬でとぼとぼと進んだ。厳寒の中を4日間やっと味方に合流したとき彼は左足も凍傷になったことを指揮官の中将に平然と報告した。軍は Wilna に2日間留まったあと退却を余儀なくされ、彼は取り残されるしかなかった。彼は25才の誕生日、1813年1月10日に亡くなった。
[注]
ウーラント肖像、H.ガイガーとF.シュライヒ、ミュールハウゼンに向かう渡し舟での結婚式の各写真が、現地案内板に掲載されている
以上は、釜澤が「FÄHRHAUS HOFEN (ホーフェンの渡し小屋)」と題した「案内板」にドイツ語で記された説明文を和訳のうえ作成した「日本語版」から引用した。案内板の日本語版PDFにココから リンクする。
ルートヴィヒ・ウーラント
Ludwig Uhland (1787-1862)
ホーフェン城址に遺る巨大な壁 撮影:2023-05-24
ホーフェン城址の案内板に 掲載された図の写真 撮影:2023-05-24
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