文語訳詩 渡し場 原作 : ルートヴィヒ・ウーラント (1787-1862) 共訳 : 猪間驥一(1896-1969)・小出健(1928-2021) 年(とし)流れけり この川を ひとたび越えし その日より 入り日に映(は)ゆる 岸の城 堰(せき)に乱るる 水の声 同じ小舟(おぶね)の 旅人は 二人の友と われなりき 一人はおもわ 父に似て 若きは希望(のぞみ)に 燃えたりき 一人は静けく 世にありて 静けきさまに 世をさりつ 若きは嵐の なかに生き 嵐のなかに 身を果てぬ 倖(さち)多かりし そのかみを しのべば死の手に うばわれし いとしき友の 亡きあとの さびしさ胸に せまるかな さあれ友垣(ともがき) 結(ゆ)うすべは 霊(たま)と霊との 語(かた)らいぞ かの日の霊の 語らいに 結(むす)びしきづな 解(と)けめやも 受けよ舟人(ふなびと) 舟代(ふなしろ)を 受けよ三人(みたり)の 舟代を 二人の霊(たま)と うち連(つ)れて ふたたび越えぬ この川を
原詩 Auf der Überfahrt Ludwig Uhland (1787-1862) Über diesen Strom, vor Jahren, Bin ich einmal schon gefahren. Hier die Burg im Abendschimmer, Drüben rauscht das Wehr wie immer. Und von diesem Kahn umschlossen Waren mit mir zween Genossen: Ach ! ein Freund, ein vatergleicher, Und ein junger, hoffnungsreicher. Jener wirkte still hienieden, Und so ist er auch geschieden. Dieser, brausend vor uns allen, Ist in Kampf und Sturm gefallen. So, wenn ich vergangner Tage, Glücklicher, zu denken wage, Muss ich stets Genossen missen, Teure, die der Tod entrissen. Doch, was alle Freundschaft bindet, Ist, wenn Geist zu Geist sich findet; Geistig waren jene Stunden, Geistern bin ich noch verbunden.--- Nimm nur, Fährmann, nimm die Miete, Die ich gerne dreifach biete ! Zween, die mit mir überfuhren, Waren geistige Naturen.
猪間驥一著「人生の渡し場」昭和32年(1957)三芽書房刊の10頁に掲載のもの 2001年6月、按針亭管理人がドイツを訪ねたとき、原詩が載るウーラント詩集を求め、本屋を見つけては、原詩の写を渡し、探して貰った。 しかし、残念ながら無かったので、原詩が載らないウーラント詩集を買った。
「週刊朝日」昭和31年(1956)10月7日号の67頁に掲載された猪間驥一・小出健共訳詩のうち、誤植と思われる箇所を、猪間驥一著「人生の渡し場」昭和32年(1957)三芽書房刊の12~13頁掲載の改題訳詩「渡し場にて」を基に修正し、ルビを若干増やしたもの
[岸]は文語訳時に加えられたもので 原詩には[岸]に相当する語句はない この詩の舞台はシュトゥットガルト(Stuttgart)のホーフェン(Hofen)で [城]はネッカー川沿いのホーフェン城廃墟であると地元の案内板が伝える。 ホーフェン(Hofen)の民間団体(Bürgerverein Hofen e.V.)が、ネッカー川(Neckar)に架かる「ホーフェナー橋」南東詰のホーフェン側渡し場跡に「FÄHRHAUS HOFEN」(ホーフェンの渡し舟小屋)という案内板を 2017年10月25日に設置し除幕した(除幕のアルバムにココからリンクする)。 なお ホーフェン城廃墟のアルバムに ココからリンクする。
「手こぎの舟」 ウーラントが生きた時代(1787~1862)のネッカー川は木材など物資運搬や人の往来に使われていたようであるが、詩の中の3人がネッカー川を渡った場所は前項目[岸の城]で説明のとおり、シュトゥットガルト(Stuttgart)のホーフェン(Hofen)から対岸奥のフォイエルバッハ(Feuerbach)に住む叔母(Schmid)を訪ねるためであったとされる。 また、前項目[岸の城]で説明の「FÄHRHAUS HOFEN」(ホーフェンの渡し舟小屋)という案内板は[渡し舟]についても写真を添えて解説している。
1976年4月のドイチェ・ヴェレの日本語放送「音楽マガジン」によると 「二人の友」のうち「父のような友」は、母親方の伯父で、1813年に亡くなった牧師のクリスチャン・エバー・ハルトホーザー 「情熱に燃える若い友」は、幼友達のフリードリッヒ・ハルプトレヒトであったという。 前々項目[岸の城]で示した「FÄHRHAUS HOFEN」(ホーフェンの渡し舟小屋)と題した案内板で詳しく解説されている。 同案内板画像のPDFファイルを ココからダウンロードでき、拡大すると説明文が読みやすくなるが、ドイツ語での記載である。
文語共訳者の一人である小出健が、[倖]は「こころ」が通い合う喜びで、しあわせを感じる意味、として使ったが、印刷時に[幸]に代ってしまった、と語っていること、また、文語訳詩であって、かつ昭和31年(1956)の作であるので、ここでは[倖]を採った。 なお、蒲田正・米山寅太郎著「新版 漢語林 第2版」大修館書店刊」では、次のとおり説明されている。 [幸]に[人]を付し、思いがけないしあわせの意味を表す。現代表記では、[倖]を[幸]に書きかえる。
(ルートヴィヒ・ウーラント) 1787~1862年 ドイツの叙情詩人、文学者。 ライン川支流のネッカー川が流れるチュービンゲンに生まれ、チュービンゲン大学で学ぶ。、1810年にパリ出て弁護士を開業したが、1815年刊行の「詩集」によって詩人としての地歩をかため、後期ロマン派を継ぐシュヴァーベン詩派の代表的詩人となった。 ウーラントの詩でドイツ民謡となったものに「よき戦友(Der gute Kamerad、1809)」、「羊飼いの日曜日の歌(Schaefers Sonntagslied)」 などがある。 ウーラントの作品のうち、シューベルトが作曲した作品「春の信仰/春の想い(Fruehlingsglaube、1812)」は日本でよく知られている。 1819年以後は政界に入り、憲法闘争で人民のために戦い、1848年フランクフルト国民会議で活躍した。1829~33年まではチュービンゲン大学で文学と言語学の教授職にあった。晩年は文学研究に没頭し、論文「ヴァルター・フォン・デル・フォーゲルヴァイデ(1822)」や「古代高地および低地ドイツ民謡(1844~1845)」などのほか、「詩歌と伝説の歴史のための書」があるという。 (本項は、1972年、平凡社刊「世界大百科事典3」を参照させていただきました。)
明治29年(1896)~昭和44(1969) 京都府生まれ、大正11年(1922)東大経済学部卒、昭和23年(1948)中央大学教授となり、昭和42年(1967)定年退職後、駒澤大学教授を務めた。専門は統計学。著書に「統計図表の見方描き方」、「人生の渡し場」、「なつかしい歌の物語」などがある。 昭和31年(1956)9月13日付朝日新聞(東京版)「声」欄に「老来五十年 まぶたの詩」と題した投書を行い、大きな反響を呼んだ。 昭和36年(1961)ドイツ留学の機会を得たときに、同国ハイデルベルクを訪ね、「渡し場」の楽譜を探し求めたが、カール・レーヴェの作品94-1「Die Überfahrt」に辿り着くことはできなかった。 しかし、帰国後、猪間が依頼したハイデルベルク居住のミーリッシュ老夫妻から新曲楽譜3つ(長い曲と短い曲2つ)、また、同じくハイデルベルク居住で老音楽家のテオドール・ハウスマンから1つの楽譜(長い曲)が届けられた。 猪間驥一は中央大学退職時に告別講演(Farewell address)を行ったが、専門の統計学から離れた演題「中央大学校歌と『惜別の歌』の由来」を敢えて選んだ。このことは、『惜別の歌』の作曲者・藤江英輔が語った経緯が、Webサイト「二木紘三のうた物語」の「惜別の歌(その3)」ページに詳しく紹介されている。「惜別の歌(その1)」ページでは「惜別の歌」(原詩は島崎藤村作「高楼」)の曲が自動演奏される。 なお、「知られざる自由主義経済学者、猪間驥一の一生とその業績をたどった」と著者がいう 次の書籍が、2013年12月に刊行された。 和田みき子著「猪間驥一評伝 日本人口問題研究の知られざるパイオニア」 2013年12月9日 原人舎刊 ISBN 978-4-925169-76-9
昭和3年(1928)~令和3年(2021) 昭和25年(1950)3月中央大学予科卒 昭和31年(1956)9月13日付朝日新聞(東京版)「声」欄に載った猪間驥一の投書「老来五十年 まぶたの詩」に対し、自らの訳詩を添えて次の内容の書面を送り、昭和31年(1956)10月7日付週刊朝日67ページに次のとおり紹介された (28歳、北多摩郡国分寺町内藤新田) 昭和25年、中央大学予科を間もなく修了するころ、ドイツ語の時間に難波準平講師が、 ザラ紙にタイプした原詩と英訳を学生たちに配った。 「もう来年から教えなくなる諸君に、記念としてこの詩を贈る。諸君も学部に進めばだんだんチリジリになるだろうが、友だちはいつまでも忘れないようでありたい」 というのだった。学生が、迫ってきていた試験の範囲をきくと、「この詩の一節も出しますから、よく覚えておいて下さい。」との返事だった。 難波先生は、センベツだからといったが、学生は、プリント代に1円ずつ集めて差しあげたのも、忘れられない。戦災で両親を失ったせいでもあるんでしょうか、忘れられません。 戦争が終わってかなり経ってから 小出健(たけし)が作ったという詩が2つあり、小出健から公開してもよいとの承諾を2012年11月1日(木)に松田昌幸と按針亭管理人が小出健を訪ねた時に得たので、次のとおり紹介させていただきます。 5月の風 五月の風の吹く頃は 紫色の藤も咲く 地下工場の思い出も 涙と共によみがえる 五月の風の吹く頃に 地下工場の入口で 太い大きな藤の木が 私の出入を見てました 五月の風の吹く頃に 水のしたたる地の中で 若きしるしの健康を 愛する祖国に売りました 五月の風の吹く頃に 私の親しき友達が 肺結核で死にました 藤の花咲く頃でした 五月の風の吹く頃は 紫色の藤も咲く 地下工場の思い出も 涙と共によみがえる 五月の風よ窓に咲け 猫柳 三月十日の空襲で 父さま母さまなくなって 僕は一人になりました 多摩川堤の猫柳 お前もあの夜の火の雨の 悪魔の呼びを知ってるか 泣きも暮しもしたけれど たずねる人はすでになく 僕は一人になりました 多摩川堤の猫柳 お前も昨年の大水に よくぞ一人でたえました 中央:小出健(こいでたけし) 左:松田昌幸 右:中村喜一 撮影:2012-11-01
(28歳、北多摩郡国分寺町内藤新田) 昭和25年、中央大学予科を間もなく修了するころ、ドイツ語の時間に難波準平講師が、 ザラ紙にタイプした原詩と英訳を学生たちに配った。 「もう来年から教えなくなる諸君に、記念としてこの詩を贈る。諸君も学部に進めばだんだんチリジリになるだろうが、友だちはいつまでも忘れないようでありたい」 というのだった。学生が、迫ってきていた試験の範囲をきくと、「この詩の一節も出しますから、よく覚えておいて下さい。」との返事だった。 難波先生は、センベツだからといったが、学生は、プリント代に1円ずつ集めて差しあげたのも、忘れられない。戦災で両親を失ったせいでもあるんでしょうか、忘れられません。
5月の風 五月の風の吹く頃は 紫色の藤も咲く 地下工場の思い出も 涙と共によみがえる 五月の風の吹く頃に 地下工場の入口で 太い大きな藤の木が 私の出入を見てました 五月の風の吹く頃に 水のしたたる地の中で 若きしるしの健康を 愛する祖国に売りました 五月の風の吹く頃に 私の親しき友達が 肺結核で死にました 藤の花咲く頃でした 五月の風の吹く頃は 紫色の藤も咲く 地下工場の思い出も 涙と共によみがえる 五月の風よ窓に咲け 猫柳 三月十日の空襲で 父さま母さまなくなって 僕は一人になりました 多摩川堤の猫柳 お前もあの夜の火の雨の 悪魔の呼びを知ってるか 泣きも暮しもしたけれど たずねる人はすでになく 僕は一人になりました 多摩川堤の猫柳 お前も昨年の大水に よくぞ一人でたえました 中央:小出健(こいでたけし) 左:松田昌幸 右:中村喜一 撮影:2012-11-01
5月の風 五月の風の吹く頃は 紫色の藤も咲く 地下工場の思い出も 涙と共によみがえる 五月の風の吹く頃に 地下工場の入口で 太い大きな藤の木が 私の出入を見てました 五月の風の吹く頃に 水のしたたる地の中で 若きしるしの健康を 愛する祖国に売りました 五月の風の吹く頃に 私の親しき友達が 肺結核で死にました 藤の花咲く頃でした 五月の風の吹く頃は 紫色の藤も咲く 地下工場の思い出も 涙と共によみがえる 五月の風よ窓に咲け
猫柳 三月十日の空襲で 父さま母さまなくなって 僕は一人になりました 多摩川堤の猫柳 お前もあの夜の火の雨の 悪魔の呼びを知ってるか 泣きも暮しもしたけれど たずねる人はすでになく 僕は一人になりました 多摩川堤の猫柳 お前も昨年の大水に よくぞ一人でたえました 中央:小出健(こいでたけし) 左:松田昌幸 右:中村喜一 撮影:2012-11-01
<注> 小出健が猪間驥一と共訳した「渡し場」が昭和31年(1956)10月7日付週刊朝日67ページに載っている 本webページ冒頭の「渡し場」は、この週刊朝日に掲載されたもの この共訳詩は文語であり、現在の若い方々には解りにくいところがあろうが、按針亭管理人は同週刊誌が発行された昭和31年(1956)10月にノートに記したものであり、ここでは、文語訳詩を載せていただく
「渡し場」の原詩「Auf der Überfahrt 」は、ライン川支流のネッカー川が流れるチュービンゲンに生まれ育ったドイツ詩人ウーラント(Ludwig Uhland)によって1823年に作られた。 それから約90年後、明治から大正となった1912年頃、明治20年(1887)から3年間のドイツ留学経験がある新渡戸稲造らが、この詩を「友情はかくありたい」といった趣旨で、講話、雑誌、単行本などを通じ、少年少女、学生、一般人に盛んに紹介した。 戦後においても、新渡戸の影響を受けたと思われる教職者が、学生に語り伝えることがあった。やがて、戦後の混乱が落ち着き始め、後に神武景気といわれるときに、「渡し場」の文語共訳者の一人となった猪間驥一が、昭和31年(1956)9月13日発行朝日新聞(東京版)の「声」欄に「老来五十年 まぶたの詩」と題して次の投書を行った。 ◇老人の日に、一老人の願いをきいていただきたい。次のような内容の詩をご存じ知の方はあるまいか。 ◇「渡船に乗って川を越そうとしている老人がある。何十年か前に、彼は親友と連れ立って、同じ渡しを渡ったことがあった。老人のまぶたの裏には、なつかしい亡友のおもかげが、そのかみの数々の思い出につれて浮かんでくる。 『着きましたよ』という船頭の声に、驚いて老人は立上って、渡し賃を払う。一人分の倍額ある渡し賃『船頭さん、それだけとっておいて下さい。お前さんにはお客は一人しか見えなかったろうが、わたしは連れと一緒だったつもりだから』と老人がいった」 ◇私は子供のころ、これを少年雑誌か何かで読んだ。そのとき、大きくなって外国語がわかるようになったら、それを読み直そうと思った。そして一、二の外国語を学んで、この詩にめぐり会おうと心がけてきたが、それ以来五十年ついに会えないでいる。子を失い友を失うこと多く、老来、この詩のこころをひしひしと感ずることがしばしばである。これがどこの国のだれの詩か、何の本に出ているか、どなたか教えて下されば幸いである。 この投書に対する反響は大きく、投書者猪間驥一の元に、直接または朝日新聞社を介して原詩を含む関連資料情報が多数の人々から寄せられ、朝日新聞(東京版)学芸欄への投書者・猪間驥一よる『「まぶたの詩」に会うの記』および週刊朝日の『詩 人生の「渡し場」 投書欄に咲いた心の花』として特集された。 資料提供者の中に、原詩と自らの訳詩を提供した、当時20才代の小出健(こいで たけし)がいた。小出は週刊朝日に掲載された文語訳詩「渡し場」の共訳者となった。
◇老人の日に、一老人の願いをきいていただきたい。次のような内容の詩をご存じ知の方はあるまいか。 ◇「渡船に乗って川を越そうとしている老人がある。何十年か前に、彼は親友と連れ立って、同じ渡しを渡ったことがあった。老人のまぶたの裏には、なつかしい亡友のおもかげが、そのかみの数々の思い出につれて浮かんでくる。 『着きましたよ』という船頭の声に、驚いて老人は立上って、渡し賃を払う。一人分の倍額ある渡し賃『船頭さん、それだけとっておいて下さい。お前さんにはお客は一人しか見えなかったろうが、わたしは連れと一緒だったつもりだから』と老人がいった」 ◇私は子供のころ、これを少年雑誌か何かで読んだ。そのとき、大きくなって外国語がわかるようになったら、それを読み直そうと思った。そして一、二の外国語を学んで、この詩にめぐり会おうと心がけてきたが、それ以来五十年ついに会えないでいる。子を失い友を失うこと多く、老来、この詩のこころをひしひしと感ずることがしばしばである。これがどこの国のだれの詩か、何の本に出ているか、どなたか教えて下されば幸いである。
ウーラントによって1823年に作られた「渡し場」の原詩「Auf der Überfahrt 」を、誰が最初に日本へ紹介したかは、確たるところは不明であるが、「文語訳詩 誕生の経緯」の項で記したとおり、新渡戸稲造が有力候補であるとするのに、異論は少ないと思われる。 そこで、 新渡戸稲造著「世渡りの道」から「同情の修養」の一節を、「渡し場」の原詩を紹介している一例として、次のとおり掲げたい。 同情と親友に就て思ひ出さるゝのは、ウーランドの詩である。氏は独逸の政治家であると共に一代の大詩人で、六十余年前に最も持て囃された人である。氏の叔父に牧師になった人がある。又氏と同窓で法律を攻め、後に一年志願兵となり、ナポレオンの戦争で戦死した親友がある。氏がネッカル川を渡るとき、この親しき二人の死を想出して詠じた詩は、実に親友に対する熱情を披瀝したものである。 顧みれば数年前曾て一度この川を渡ったことがある。 河畔には当年の古城が依然として夕陽に聳えて居る。 河上にはヤナが昔と変らず淙々として響いて居る。 その時には我の外に二人の友が此の舟に座し共に此河を越えた。 一人は老人で静に世を渡り後ほど静に世を去った。 一人は血気熾(さかん)な青年で、嵐の中に身を処して遂に嵐の為に倒れた。 有りし当時を追懐すれば、何時も二人の面影が現はれる。而も此二人は死の手の為に我より裂かれたるものなるに…… 否、否、我が二人と交りて、友よ、友よと親しんだ睦さは、肉の交りにあらざりし。心と心との友誼であった。魂と魂との交であった。 霊的親交なりし上は、ヨシ今肉体はあらなくも、尚親しみは変るまい。 オイ船頭、モ-舟が着いたの-。コレ、三人分の賃銭を払ふから納めて呉れ。 お前の目には見えなかったであらうが、客は我の外に尚二人あった。 親友に対する斯かる切なる情は、自然に磨かれて四囲の人々に対しても、温かき同情を表はすやうになる。その情は決して親しき二人に止まるものではない。ウーランドの心中を更に知らない船頭まで、その恩恵に浴する様なものである。
顧みれば数年前曾て一度この川を渡ったことがある。 河畔には当年の古城が依然として夕陽に聳えて居る。 河上にはヤナが昔と変らず淙々として響いて居る。 その時には我の外に二人の友が此の舟に座し共に此河を越えた。 一人は老人で静に世を渡り後ほど静に世を去った。 一人は血気熾(さかん)な青年で、嵐の中に身を処して遂に嵐の為に倒れた。 有りし当時を追懐すれば、何時も二人の面影が現はれる。而も此二人は死の手の為に我より裂かれたるものなるに…… 否、否、我が二人と交りて、友よ、友よと親しんだ睦さは、肉の交りにあらざりし。心と心との友誼であった。魂と魂との交であった。 霊的親交なりし上は、ヨシ今肉体はあらなくも、尚親しみは変るまい。 オイ船頭、モ-舟が着いたの-。コレ、三人分の賃銭を払ふから納めて呉れ。 お前の目には見えなかったであらうが、客は我の外に尚二人あった。
ネッカー川は、ドイツ南西部のシュヴェニンゲン辺りに発し、北上しながら、ウーラントの生地・チュービンゲン、シュトゥットガルト、ヒルシュホルン、ハイデルベルクなどを経て、マンハイムでライン川に合流する。ネッカー川の全長367㎞は、ドイツ4番目の長さで、たまたま日本の最長河川である信濃川(367㎞)と同じ長さ。ネッカー川は、1100年頃から約800年にわたり、専ら木材輸送に使われたといわれる。 観光で有名な古城街道は、マンハイムから遡ってハイデルベルク、ネッカーシュタインナッハ、ヒルシュホルン、ネッカーエルツ、ネッカーツインメルン、ハイエルブロンまではネッカー川沿いに走り、ノイエンシュタイン、ローテンブルグなどを経てニュルンベルクに至るが、ローテンブルク付近でロマンチック街道と交差する。
本webサイト「按針亭」管理人が「週刊朝日」に載った本訳詩「渡し場」に初めて出会ったのは、「週刊朝日」が発行された昭和31年(1956)10月上旬の高校3年の時でした。 その折、故あって本詩をノートに記し、以後、既存の歌の旋律をまねるような形で、密かに勝手な節をつけ、半世紀を越えて口ずさんで来ました。 還暦を迎える数年前に詩吟研修を再開後、近代詩を吟じる方法で吟じたいと念じながら、月日が過ぎ去って行きました。やがて、後期高齢期も間近に迫ってきたことから、自ら符付けに取り組み、本『友を想う詩! 「渡し場」~ルートヴィヒ・ウーラント原作、猪間驥一・小出健共訳~』ページを新設し公開するに到りました。 なお、本「渡し場」ページを作成するに当たり、「ウーラント同"窓"会」(特に、松田昌幸、丸山明好の両氏)には、資料提供・試作版への助言などで大変お世話になりました。厚意に深謝し厚く御礼申し上げます。 平成24年(2012)10月14日 按針亭管理人記令和4年(2022)2月26日 一部改訂