友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
アルテンドルフ
新設:2012-10-14
更新:2022-10-31
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々

略  歴
(クラウス アルテンドルフ)
語り継ぎの足跡-1
昭和50年(1975)7月22日付朝日新聞(東京版)「声」欄に「思い出の歌によみがえりを」と題した鎌倉在住の医師・佐藤裕の投書が載った。このときは、猪間驥一による昭和31年(1956)の投書から19年後であったが、反響が大きく広がり、朝日新聞(東京版)は同9月15日に「投書を追って」欄で「”心の詩に”親しめる新曲を」の見出しを付けて、反響の一端を紹介した。その中に、ドイチェ・ヴェレ放送のクラウス・アルテンドルフ日本語課長から寄せられた投稿があった。


クラウス・アルテンドルフ  (ドイチェ・ヴェレ放送 日本語課長)

本欄で佐藤裕氏の投書を興味深く読んだ。ウーラントの詩を作曲したのは、ドイツ人作曲家カール・レーウェ(Carl Loewe,1796-1869)ではないだろうか(作品番号94.1)。当方では、この投書に関心を持ち、西ベルリン音楽研究所など関係各所に問い合わせたところ、レーウェはウーラントの詩を全部で十五作曲していて「渡し場にて」は、その一つという回答を得た。残念なことに、これまでの確認では、この曲の録音はない。もちろん、楽譜ならあると思うのだが、東京のゲーテ・インスティトゥート所長、コルロイター教授なら専門家としてアドバイスして下さると思う。当方としても「リリー・マルレーン」と同様、この曲を使って番組を作りたいと考えている-。


アルテンドルフらドイチェ・ヴェレは、丸山明好からの手紙(猪間驥一と「渡し場」の関わりの詳しい経緯を資料を添えて、『カール・レーヴェの「渡し場」の曲を捜して欲しい』との要請)もあって、さらに調査を進め、先ず、昭和50年(1975)12月に、アルテンドルフからレーヴェ作曲の楽譜が丸山明好に届けられた。丸山明好は朝日新聞に楽譜を請求した方へ楽譜のコピーを送った。

さらに、ドイチェ・ヴェレは「渡し場」の調査を継続し、その結果をまとめて、翌昭和51年(1976)4月11日に日本語放送「音楽マガジン」で、『ウーラントの「渡し場で」という歌を知っていますか?』と題して放送し、その数日後に、放送録音テープが丸山明好に届けられた。
丸山明好は、先に楽譜のコピーを送った方に、届いた録音テープのコピーを送った。丸山明好の朝日新聞(東京版)「声」欄への投書「みつかった幻の譜」は同年4月19日に掲載された。

ドイチェ・ヴェレの放送では、佐藤裕の「声」欄への投書、丸山明好から受け取った「曲を捜して欲しい」との手紙を紹介すると共に、20数年前に録音され西ベルリンの「ディアス放送局」が保管していたという、バラードを得意とする盲目のバリトン歌手(アロイス・ヴィーナ)が歌った「カール・レーヴェ作曲」の原詩の歌声が、放送の途中と終了前の2回にわたり流された。

<参照>
「渡し場」の楽譜を求めての旅路(第二幕) ~「渡し場」の舞台・ドイツを巻き込んでの探索~
☆ドイチェ・ヴェレ放送の文字情報は 往時の松田昌幸サイト『ウーラント「渡し場」が世に出るまで』に載っていたが閉鎖された

85才の誕生日会
2014年6月2日(月) ウーラント同"窓"会が東京の銀座にある「ざくろ」で開催されたときに 出席した声楽家佐藤征一郎からアルテンドルフの近況などにつき 次のとおり報告された。


今年(2014)4月26日に ドイチェ・ベェレの往時の日本語放送担当仲間が集まって アルテンドルフ「85才の誕生日を祝う会」が開かれた。ただ、元ドイチェ・ヴェレの仲間が集まるのは これが最後になるとのことであった。

なお、4月25~27日に カール・レーヴェの生誕地(Löbejün)で第5回カール・レーヴェ音楽祭が開催され 同4月26日開催の国際カール・レーヴェ協会の総会に於いて 自分が名誉会員に推挙され、ドイツ人以外では初めての名誉会員となった。⇒報告書