按針亭
友を想う詩!
新設 : 2012-10-14
更新 : 2016-03-18
友を想う詩! ウーラント原作「渡し場」
楽譜を求めての旅路
ハイデルベルク城から旧市街、ネッカー川、古い橋を望む  2001年6月14日撮影
ハイデルベルク城から旧市街
ネッカー川、古い橋を望む
2001年6月14日撮影
古城街道沿いヒルシュホルンのネッカー川沿い高台の中世の城
古城街道沿いヒルシュホルン
ネッカー川沿い高台の中世の城
2001年6月15日撮影
 古城街道沿いヒルシュホルンのネッカー川、左中央に貨物船が停泊している 2001年6月15日撮影
古城街道沿いヒルシュホルンのネッカー川
左中央に貨物船が停泊している
2001年6月15日撮影
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按針亭管理人が、56年前の昭和31年(1956)10月に、文語体訳詩「渡し場」に出会いながら、詩文をノートに記し、自分で拙い節を付けて口ずさむといった、自分だけの殻に閉じこもっていた。

一方、この間に、「渡し場」の「曲・楽譜を求めての旅路」のドラマが、第1幕、第2幕、そして、第3幕へと、「渡し場」に熱い想いを寄せる人々の手で進められていた。以下、その一部分を、登場人物の敬称を全て省いて、紹介させていただきます。

なお、本「「渡し場」の「楽譜を求めての旅路」ページを作成するに当たり、「ウーラント同窓会」メンバーである松田昌幸のサイト『ウーラント「渡し場」が世に出るまで』および丸山明好がまとめた『「渡し場」年譜』(非公開)を参照し、一部引用させていただきました。

平成24年(2012)10月17日 按針亭管理人・中村稲岳記

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第一幕 1956年~1974年 ~専ら、猪間驥一による探索~
昭和31年(1956)9月13日付朝日新聞(東京版)「声」欄に「老来五十年 まぶたの詩」と題した投書を行った猪間驥一は、朝日新聞の読者から原詩と訳詩などの提供を受けた後、次のステップとして、口語訳詩作成と曲・楽譜探しに向かった。

猪間驥一は、若い世代には文語体は向かないのではとの思いから、口語訳詩を猪間驥一書「人生の渡し場」12~13頁に掲載し、昭和32年(1957)7月に三芽書房から刊行した。

曲・楽譜は日本国内で得られなかったため、ヨーロッパ留学の機会を得た昭和36年(1961)<出発:4月17日~帰国:9月19日>に、ドイツのハイデルベルクを訪ね、ハイデルベルガー・ターゲプラネット(地元新聞社)の協力を得て、日本人が「渡し場」の楽譜を探している旨の記事を、昭和36年(1961)6月26日の紙面に載せて貰った。しかし、楽譜はないとの回答で、カール・レーヴェ(Carl Loewe)の作品94-1「Die Ueberfahrt」に辿り着くことができなかった。

それでも、猪間は諦めなかった。ハイデルベルガー・ターゲプラネットを再度訪ね、曲・楽譜がないのなら、地元の人に作曲して欲しいとの記事を書いて貰うと同時に、曲・楽譜はないとの回答を寄せたハイデルベルク居住のミーリッシュ夫人(ヘレーネ・ミーリッシュ)を訪ね、幸にもご夫妻と話すうちに、ご主人(Obering Curt Mierisch)がご夫妻だけのための作曲をすることが判ったので、「渡し場」への作曲を依頼した。

猪間には、帰国後いろいろの経緯があって、ミーリッシュ主人(Curt Mierish)作曲の楽譜3つ(長い曲と短い曲2つ)、また、同じくハイデルベルク居住で老音楽家のテオドール・ハウスマン(Theodor Hausmann)作曲の楽譜(長い曲)1つが届けられた。ハウスマンの曲は、ハイデルベルク大学教務局長のゲルハルト・ヒンツがハウスマンに作曲を依頼したもので、手書の楽譜で1~6連の詩文に異なった曲が付けられたものであった。この楽譜は、1年後にハイデルベルクの Sueddeutschen Musikverlag, Willy Mueller という音楽出版社から発売されたという。

猪間がハウスマンの曲を日本で公開した証拠として送った「音楽の友」昭和40年(1965)5月号をハウスマンが受け取ったのは85歳の誕生日(1965年12月8日)であり、これをハイデルベルガー・ターゲプラネットが同年(1965年)12月21日付紙面で経緯を含めて詳しく報道したという。

猪間驥一は、合計4つの譜面を受け取ったことになり、これらは、次の雑誌と書籍で報告されている。
   雑誌「文芸春秋」昭和38年(1963)5月号274~280頁 文藝春秋社刊
       「渡し場の歌」物語 24行の詩に美しい曲がつくまで
   雑誌「音楽の友」昭和40年(1965)5月号150~153頁 音楽之友社刊
       原詩物語『渡し場』の譜
   書籍「なつかしい歌の物語」 昭和42年(1967)7月 音楽之友社刊

猪間驥一は、「渡し場」を広めることに大きな功績を遺されて、昭和44年(1969)4月16日に逝去された。

昭和48年(1973)9月12日付朝日新聞(名古屋版)「声」欄に、古田かね子の『十余年前の「渡し場」記事の切抜きを紛失したので、「詩を教えて下さい」』との投書は反響を呼び、同9月15日付朝日新聞(名古屋版)は「今週の声から」欄で『反響を呼んだ友情の詩「渡し場」』のタイトルで特集を組み、星野四郎加藤てい早崎守俊らの投書を紹介した。

そのうち、5年前にウーラントの生地・チュービンゲンに留学滞在した早崎守俊は「この詩はカール・レーヴェが作曲、ウーラントの生家や夫妻のお墓も度々訪ねた」と友人二人にも触れながら報告、同月25日の「声」欄に池田敦子がレーヴェの「渡し場」の曲を知りたいと投書。このときは、名古屋地区だけの反響で終結したように感じられるものの、星野四郎の投書を基に次に記すNHKラジオ第1番組「渡し場のメロディー」誕生へとつながる。

昭和49年3月30日にNHKラジオ第1放送「渡し場のメロディー」で、星野四郎が「渡し場」を介しての昭和31年(1956)以来の猪間驥一と桜丘高校(豊橋市)との交流を語り、上掲のミーリッシュ作曲のメロディーが流された。この放送が昭和51年4月19日、NHKラジオ第1「趣味の手帳」で再放送されたときに、後に、第三幕の起爆剤となるのだが、松田昌幸が偶然にも直感をもって録音テープに収めた。

雑誌「文芸春秋」昭和38年(1963)5月号274頁の見だし部分
「文芸春秋」昭和38年5月号見出し


「音楽の友」昭和40年5月号見出し
「音楽の友」昭和40年5月号見出し


猪間驥一著「なつかしい歌の物語」表紙猪間驥一著「なつかしい歌の物語」表紙カバー
猪間驥一著「なつかしい歌の物語」

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第二幕 1975年~1998年 ~「渡し場」の舞台・ドイツを巻き込んでの探索~
第二幕の幕開きは、第一幕で「渡し場」に関心を寄せた人々の中から立上った。

昭和50年(1975)7月22日付朝日新聞(東京版)「声」欄に「思い出の歌によみがえりを」と題した鎌倉在住の医師・佐藤裕の投書が載った。このときは、猪間驥一による昭和31年(1956)の投書から19年後であったが、反響が大きく広がり、朝日新聞(東京版)は同9月15日に「投書を追って」欄で「”心の詩に”親しめる新曲を」の見出しを付けて、反響の一端を次のとおり紹介した。

国内では、猪間驥一の教え子の丸山明好からの『猪間驥一による口語訳詩と同氏の「渡し場」との関わりの情報を簡潔かつ解り易くまとめたもの』、外に、堀憂子小谷慈明からの投書を紹介。海外では、西ドイツ(当時)のドイチェ・ウェレ(放送局)クラウス・アルテンドルフ日本語課長からの「佐藤裕の投書に関心を持ち、西ベルリン音楽研究所など関係各所に照会し、ウーラントの詩を15も作曲したカール・レーヴェが「渡し場」も作曲していることが判った。この曲のレコード録音はない。楽譜は調査中」との要旨の投書であった。

この9月15日付の記事を見た丸山明好は、直ちに、ドイチェ・ウェレのクラウス・アルテンドルフ宛に、猪間驥一と「渡し場」の関わりの詳しい経緯を資料を添えて、『カール・レーヴェの「渡し場」の曲を捜して欲しい』と、お願いの手紙を送った。

これを受けて、ドイチェ・ウェレは更に調査を進め、先ず、昭和50年(1975)12月に、アルテンドルフからレーヴェ作曲の楽譜が丸山明好に届けられた。丸山明好は朝日新聞に楽譜を請求した方へ楽譜のコピーを送った。

さらに、ドイチェ・ウェレは「渡し場」の調査を継続し、その結果をまとめて、翌昭和51年(1976)4月11日に日本語放送「音楽マガジン」で、『ウーラントの「渡し場で」という歌を知っていますか?』と題して放送し、その数日後に、放送録音テープが丸山明好に届けられた。

丸山明好は、先に楽譜のコピーを送った方に、届いた録音テープのコピーを送った。丸山明好の朝日新聞(東京版)「声」欄への投書「みつかった幻の譜」は同年4月19日に掲載された。

ドイチェ・ウェレの放送では、佐藤裕の「声」欄への投書、丸山明好から受け取った「曲を捜して欲しい」との手紙を紹介すると共に、20数年前に録音され西ベルリンの「ディアス放送局」が保管していたという、バラードを得意とする盲目のバリトン歌手(アロイス・ヴィーナ)が歌った「カール・レーヴェ作曲」の原詩の歌声が、放送の途中と終了前の2回にわたり流された。

この盲目歌手(アロイス・ヴィーナ)が、当時は東ドイツであったハレ(halle)に住み、密かに西ベルリンの放送局にしばしば足を運んだこと、そして、偶然であるが、カール・レーヴェの生地がハレの近郊であることを伝えた。

また、「渡し場」の原詩はウーラントによって1823年10月9日に書かれたこと、カール・レーヴェが1843年に作曲したこと、「渡し場」の楽譜が1900年にプライスコップ・ウント・ヘルペル出版社から出された「カール・レーヴェ全集」に載っていることを含め、取材した「渡し場」にまつわる幾つもの話が紹介された。

以上の大きな動きがあった後、丸山明好が楽譜・ドイツ放送録音テープを送った先の人など「渡し場」に熱い思いを寄せる人達の間で、「渡し場」の情報・資料のやりとりなどが静かに続いて、20数年の時が過ぎ去った。

ただ、この間に、ドイツの放送局「ドイチェ・ヴェレ」から丸山明好に届いた録音テープは、数奇な運命を辿ることがあった。丸山明好が語る数奇な話とは……
昭和63年(1988)、ドイツのフランクフルトへ行く機会があった。フランクフルトからハイデルベルグまでは、特急列車で約1時間の距離だったので、ネッカー河の橋の近くで、この録音テープを聴こうと考えてテープとテープレコーダーを持参した。

ハイデルベルグ駅で下車したところで、録音テープとテープレコーダーを入れていたアタッシェケースを盗まれてしまった。仕方なく、手ぶらでネッカー河の橋の近くまで行ってからフランクフルトへ帰った。

2日後に、フランクフルトのホテルにパトカーが来て、盗まれたアタッシェケースを届けてくれた。アタッシェケースの中を見ると、現金、カメラ、テープレコーダーは在りませんが、カメラからフィルムを取り出して、テープレコーダーからカセットテープを取り出して、財布も紙幣だけ抜いて財布と硬貨は残して、他に書類なども捨てられずにアタッシェケースの中に在った。

あの泥棒さんが「アタッシェケースの落とし物がありました」と、警察へ届けたのであろうと思っている。ドイツ人は几帳面だと聞いていたが、ドイツの泥棒さんも几帳面で親切(?)だと感心・感激してドイツが好きになった。

ただ、フィルムはご丁寧にも全部引き出してあり、感光して思い出の写真を残すことは出来なかった。撮影済みのフィルムを巻き戻してから、カメラから取出してくれたら言うこと無しだなと思った。

親切な泥棒さんのお陰で、ネッカー河の橋の近くでしみじみ聴くことはできなかったが、貴重なカセットテープが戻ってきたことは、幸運であった。
という話です。
ウーラントの「渡し場」にからんで、外にも、奇話というべき話が幾つもあるようです。

昭和50年(1975)7月22日付朝日新聞(東京版)「声」欄投書「思い出の歌によみがえりを」の見出し
昭和50年(1975)7月22日付
朝日新聞(東京版)「声」欄投書
「思い出の歌によみがえりを」の見出し



昭和50年9月15日付朝日新聞(東京版)「投書を追って」の見出し「”心の詩に”親しめる新曲を」
昭和50年9月15日付朝日新聞(東京版)
「投書を追って」の見出し
「”心の詩に”親しめる新曲を」



昭和51年4月19日付朝日新聞(東京版)「声」欄「みつかった幻の譜」の見出し
昭和51年4月19日付朝日新聞(東京版)
「声」欄「みつかった幻の譜」の見出し



カール・レーヴェ作曲(94-1)「渡し」楽譜の冒頭部分

カール・レーヴェ作曲(94-1)
「渡し」楽譜の冒頭部分

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第三幕 1999年~2012年 ~カール・レーヴェ作曲「渡し場」の日本初演奏とCD発売まで~
松田昌幸は、平成11年(1999年)11月に、自ら記録している情報整理カードのうち1枚だけ少し飛び出しているのに気付き、何だろうと手にしたところ、星野四郎が語る「渡し場」に関するもので、昭和51(1976)年4月19日にNHKラジオ第一放送「趣味の手帳」が再放送した『星野四郎が「渡し場」を介しての昭和31年(1956)以来の猪間驥一と桜丘高校との交流を語った』ときの要旨であった。

松田昌幸は自宅内で録音テープを探したが、2ヶ月前に多数の録音テープを廃棄処分した時に一緒に処分してしまったと判った。しかし、松田昌幸は、当該録音テープのコピーを失明した友人・石間戸に昭和60年(1985)に贈呈したことを想い出し、石間戸を訪ねた。石間戸宅で500本以上のテープの中を探し始め、残りテープがあと数本となったときに、14年前に石間戸に贈呈した録音テープ、即ち、NHK「趣味の手帳」の録音テープを発見した。

松田昌幸は、平成16年(2004)2月6日、立川図書館で「渡し場」掲載の週刊朝日をコピーし、「渡し場」の文語体共訳者の一人・小出健が昭和31年(1956)当時住んでいた処が、自分の家の近くであることに気付いた。松田は、直ちに近隣の方に尋ねたうえで、小出健宅を訪ねたが、生憎、小出健は留守であった。

平成16年(2004)2月9日、小出健が松田昌幸宅を訪ねたが、松田は不在、翌2月10日、松田昌幸は小出健を夕方自宅に招待し二人で酒を酌み交わした。その時、小出健が松田昌幸に「渡し場」の訳詩コピーを手渡した。それは、小出健が猪間驥一の朝日新聞への投書に応えて朝日新聞に投稿したものであった。後日、その訳詩に猪間驥一が手を加え、猪間驥一・小出健共訳として週刊朝日に掲載されたと、小出は話した。

平成16年(2004)6月、松田昌幸は、声楽の先生・伊藤弘子から「日本カール・レーヴェ協会」があり、その代表が佐藤征一郎であることを教えられ、同年6月22日にフレッシュマン・ウインド・アンサンブルの楽屋にて佐藤征一郎に面談のうえ、「渡し場」の楽譜探しを依頼したところ、同年6月29日に佐藤征一郎からレーヴェ作曲の「楽譜」が松田昌幸宅に届けられた。

松田昌幸は、小谷慈明の電話番号を探し出して、同年6月に電話したところ、「渡し場」の楽譜とドイチェ・ヴェレの録音テープの存在を知り、小谷慈明から楽譜と録音テープが同6月30日に届けられた。

平成18年(2006)1月25日、佐藤征一郎から松田昌幸宛にFAXで、第18回カール・レーヴェ全歌曲連続演奏会のプログラムに掲載する原稿執筆依頼が届き、松田は当該要望に応じた。

平成18年(2006)5月28日に紀尾井ホールで開催された「第18回カール・レーヴェ全歌曲連続演奏会」に佐藤征一郎は5枚の招待状を松田昌幸に贈呈した。松田昌幸は、その内の1枚を小出健に贈り、一緒に「演奏会」に出席した。、佐藤征一郎が原語で「渡し場」を歌った。歌い終ったとき、小出健が突然立ち上がって、佐藤征一郎に向かって深々とお辞儀をした。

たまたま、会場で小出の後方座席にいた高成田享(当時、朝日新聞論説委員)が「何か訳がある」と感じ、同年7月2日に松田昌幸宅で小出健を交えて取材を行い、平成18年(2006)7月6日付朝日新聞(東京版)「窓 論説委員室から」欄に『「渡し」にはドラマがある』を、次のとり掲載した。
東京の音楽会で不思議な光景を見た。ドイツ歌曲を多く作ったカール・レーベの演奏会で、声楽家の佐藤征一郎(さとうせいいちろう)さんが「渡し」という曲を歌い終わった瞬間、客席にいた老人がすっと立ち上がり、佐藤さんに深々とおじぎをしたのだ。

かって、この渡し船に同乗した友のうち、ひとりは静かに、もうひとりは戦いの嵐のなかで死んだ。その友を偲んで、3人分の船賃を船頭に払おう。そんな歌だ。

50年前の朝日新聞に、この詩の作者を知りたいという投書が載った。それに対して「学生時代に学んだドイツの詩人ウーラントの作品だ」と応え、私訳を添えた人がいた。客席にいた小出健(こいでたけし)さん(78)だ。

小出さんがこの歌曲を知ったのは、投書のいきさつを聞いて、この詩に興味を持った松田昌幸(まつだまさゆき)さん(69)からだった。松田さんはウーラントの詩が好きだったこともあり、調べるうちに、この詩がレーベによって作曲されていることを知った。松田さんが日本カール・レーベ協会の代表でもある佐藤さんに連絡をとったことで、音楽会を知り、ふたりとも出席したという。

「最初から強烈な印象の詩でした。音楽会では、あらためて亡くなった友人たちを思い出しながら聴いていたら、自然と立ち上がってしまいました」と小出さん。

「この詩を調べるうちに、いろいろの人たちがこの詩にかかわっていることを知りました。たまたま渡しに乗り合わせた旅人たちのようでしょう」と松田さん。

「渡し」の話は尽きない。 (高成田享)
平成18年(2008)5月28日、第18回カール・レーヴェ全歌曲連続演奏会の開催会場「紀尾井ホール」にて、レーヴェ作曲「渡し」の日本初演奏を記念して声楽家佐藤征一郎を交えた写真
平成18年(2006)5月28日
第18回カール・レーヴェ全歌曲連続演奏会
開催会場「紀尾井ホール」にて
左:松田昌幸、中央:佐藤征一郎、右:小出健



平成18年(2008)7月6日付朝日新聞(東京版)「窓 論説員室から」欄に掲載された『「渡し」にはドラマがある』
平成18年(2006)7月6日付朝日新聞(東京版)
「窓 論説員室から」欄に掲載された
『「渡し」にはドラマがある』

「窓」の記事を読んだ志田忠正は、同年7月8日に高成田享に問合わせ、同年7月20日に高成田享と面会、高成田享の紹介で松田昌幸に同年7月22日連絡をとった。この間の同年6月3日に松田昌幸と丸山明好が虎ノ門パストラルで初面会し、同年7月北原文雄は松田昌幸宅で小出健を交えて面会した。

以上の経過を踏まえ、朝日新聞の「窓」が媒介となった「絆」を深めるため、「第1回ウーラント同窓会」を同年8月16日にプレスセンタービル内「アラスカ」で開催し、北原文雄、朽津耕三、小出健、小谷慈明、志田忠正、松田昌幸、丸山明好、高成田享が出席した。

その後、「ウーラント同窓会」は、2回目を平成19年(2007)5月11日に学士会館で、第3回目を平成20年(2008)10月4~5日に石巻で開催した。

平成20年(2008)3月3日に、松田昌幸がホームページ『ウーラント「渡し場」が世に出るまで』 を開設した。

平成22年(2010)6月25日、「カール・レーヴェ:バラードと歌曲の世界 佐藤征一郎,高橋アキ」のタイトルでCDが発売された。DISK1の[15]に佐藤征一郎が歌う「渡し」が収録されている。このCDの品番はCDT-1082/3である。

第2回「ウーラント同窓会」開催記念写真
平成19年(2007)5月11日開催
「2回ウーラント同窓会」参加者
後列左から、高成田享、丸山明好
佐藤征一郎、松田昌幸、志田忠正
前列左から、小谷慈明、小出健
北原文雄、朽津耕三

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カール・レーヴェ(Carl Loewe)(1796年~1869)は、ドイツ初期ロマン派音楽の作曲家、歌手であり、ピアニストでもあったという。

レーヴェは、バラードと呼ばれる「劇的な内容と比較的長い演奏時間を要する、物語詩への作曲」を得意としたが、リートを400曲、その外に器楽曲も残した精力的な作曲家であって、シューベルトとほぼ同時期に、ゲーテの詩による「魔王」を完成させたことが知られている。

レーヴェの生地・レーベユーン(Loebejuen)は、先に紹介した、レーヴェ作曲「渡し」を原詩で歌った旧東ドイツの歌手(アロイス・ヴィーナ)の生地・ハレ(Halle)の近郊で、ハレ北方15㎞に位置するという。これも、奇縁といえるのかもしれない。

レーヴェは、ウーラントの詩を15も作曲しており、「渡し」は1843年に作曲(作品94-1)したので、ウーラントの存命中である。しかし、レーヴェとウーラントが会ったことがあるか否かは不明である。

なお、レーヴェはウーラント作で、新渡戸稲造が紹介する詩「三青年」も作曲しているという。「三青年」は、別名「宿屋のおかみさんの娘」または「宿屋の若い娘」にて日本で演奏されることがあり、上述CDのDISK-1の[2]に収録されている。

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