按針亭
友を想う詩!
新設 : 2012-10-14
更新 : 2016-03-18
渡し場  Auf der Überfahrt
作:ルードウィッヒ・ウーラント 訳:猪間驥一・小出健
吟 : 中村稲岳
               友を想う詩!
文語体訳詩

渡し場

原作 : ルードウィッヒ・ウーラント (1787-1862) 
共訳 : 猪間驥一 (1896-1969) ・ 小出健 (1928- )

(とし)流れけり この川を
ひとたび越えし その日より
入り日に映(は)ゆる 岸の城
(せき)に乱るる 水の声

同じ小舟(おぶね)の 旅人は
二人の友と われなりき
一人はおもわ 父に似て
若きは希望(のぞみ)に 燃えたりき

一人は静けく 世にありて
静けきさまに 世をさりつ
若きは嵐の なかに生き
嵐のなかに 身を果てぬ

(さち)多かりし そのかみを
しのべば死の手に うばわれし
いとしき友の 亡きあとの
さびしさ胸に せまるかな

さあれ友垣(ともがき) 結(ゆ)うすべは
(たま)と霊との 語(かた)らいぞ
かの日の霊の 語らいに
(むす)びしきづな 解(と)けめやも

受けよ舟人(ふなびと) 舟代(ふなしろ)
受けよ三人(みたり)の 舟代を
二人の霊(たま)と うち連(つ)れて
ふたたび越えぬ この川を


原詩

Auf der Überfahrt

Ludwig Uhland  (1787-1862)


Über diesen Strom, vor Jahren,
Bin ich einmal schon gefahren.
Hier die Burg im Abendschimmer,
Drüben rauscht das Wehr wie immer.

Und von diesem Kahn umschlossen
Waren mit mir zween Genossen:
Ach ! ein Freund, ein vatergleicher,
Und ein junger, hoffnungsreicher.

Jener wirkte still hienieden,
Und so ist er auch geschieden.
Dieser, brausend vor uns allen,
Ist in Kampf und Sturm gefallen.

So, wenn ich vergangner Tage,
Glücklicher, zu denken wage,
Muss ich stets Genossen missen,
Teure, die der Tod entrissen.

Doch, was alle Freundschaft bindet,
Ist, wenn Geist zu Geist sich findet;
Geistig waren jene Stunden,
Geistern bin ich noch verbunden.---

Nimm nur, Fährmann, nimm die Miete,
Die ich gerne dreifach biete !
Zween, die mit mir überfuhren,
Waren geistige Naturen.


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ハイデルベルク城から旧市街、ネッカー川、古い橋を望む  2001年6月14日撮影
をクリックすると、
mp3ファイルを 読込後に、再生します

吟詠時間 : 4分24秒
ファイルサイズ : 1034KB
日本詩吟学院の教材に非収載
海岸で録音のため背景に波と風の音があります
古城街道沿いのヒルシュホルンのネッカー川、左中央に貨物船が停泊、2001年6月15日撮影
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(文語体)訳詩誕生経緯
 原詩
 「Auf der Überfahrt」




猪間驥一著「人生の渡し場」昭和32年(1957)三芽書房刊の10頁に掲載のもの
2001年6月、按針亭管理人がドイツを訪ねたとき、原詩が載るウーラント詩集を求め、本屋を見つけては、原詩の写を渡し、探して貰った。
しかし、残念ながら無かったので、原詩が載らないウーラント詩集を買った。

 文語体訳詩
 「渡し場」
「週刊朝日」昭和31年(1956)10月7日号の67頁に掲載された猪間驥一・小出健共訳詩のうち、誤植と思われる箇所を、猪間驥一著「人生の渡し場」昭和32年(1957)三芽書房刊の12~13頁掲載の改題訳詩「渡し場にて」を基に修正し、ルビを若干増やしたもの
猪間驥一著「人生の渡し場」表紙
猪間驥一著「人生の渡し場」表紙

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詩題
「渡し場」
「渡しの上で」、「渡し舟の上で」、「渡し」、「渡し舟」などと、すべきであったとの見方があります
第1連 1行目
「この川」
「ウーラントが生まれ育ったチュービンゲンなどを流れるネッカー川
第1連 3行目
「岸の城」
「ネッカー川沿いに建つ古城」 (ネッカー川沿いには古城が沢山ある)
第2連 1行目
「小舟」
「手こぎの舟」
ウーラントが生きた時代(1787~1862)のネッカー川は木材など物資運搬や人の往来に使われていたようで、詩の中の3人がネッカー川のある地点を舟で対岸に渡ったのか、ネッカー川沿いのある町から他の町への移動のために(例えば、チュービンゲンからハイデルベルクまで)舟に乗ったのかは不明
第2連 2行目





「二人の友」は、
1976年4月のドイチェ・ヴェレの日本語放送「音楽マガジン」によると
 「父親のような友」は、
母親方の伯父で、1813年に亡くなった牧師のクリスチャン・エバー・ハルトホーザー
 「情熱に燃える若い友」は、
幼友達のフリードリッヒ・ハルプトレヒトであったとしながら、作品の内容が実際に起こったことに基づいているのかどうかは不明としています
第2連 3行目
「おもわ」
「面輪」で「前から見た顔つき」
第4連 1行目
「倖」
文語体共訳者の一人である小出健が、[倖]は「こころ」が通い合う喜びで、しあわせを感じる意味、として使ったが、印刷時に[幸]に代ってしまった、と語っていること、また、文語体訳詩であって、かつ昭和31年(1956)の作であるので、ここでは[倖]を採った。
なお、蒲田正・米山寅太郎著「新版 漢語林 第2版」大修館書店刊」では、次のとおり説明されている。
[幸]に[人]を付し、思いがけないしあわせの意味を表す。現代表記では、[倖]を[幸]に書きかえる。
第4連 1行目
「そのかみ」
「その昔/往時」
第5連 1行目
「さあれ」
「そうではあるが/ともかくも」
第5連 1行目
「友垣」
「友、友だち」
第5連 1行目
「結(ゆ)うすべは」
「結んでいる方法(手段)は」
第5連 4行目
「きづな」
「絆/断ちにくい愛情、離れにくいつながり」(口語体では、きずな)
第5連 4行目
「解(と)けめやも」
「解けるであろうか、いや、そんなことはない」

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 原詩
ウーラント
Ludwig Uhland
(ルードウィッヒ・ウーラント)
1787~1862年 ドイツの叙情詩人、文学者。
ライン川支流のネッカー川が流れるチュービンゲンに生まれ、チュービンゲン大学で学ぶ。、1810年にパリ出て弁護士を開業したが、1815年刊行の「詩集」によって詩人としての地歩をかため、後期ロマン派を継ぐシュヴァーベン詩派の代表的詩人となった。

ウーラントの詩でドイツ民謡となったものに「よき戦友(Der gute Kamerad、1809)」、「羊飼いの日曜日の歌(Schaefers Sonntagslied)」 などがある。
ウーラントの作品のうち、シューベルトが作曲した作品「春の信仰/春の想い(Fruehlingsglaube、1812)」は日本でよく知られている。

1819年以後は政界に入り、憲法闘争で人民のために戦い、1848年フランクフルト国民会議で活躍した。1829~33年まではチュービンゲン大学で文学と言語学の教授職にあった。晩年は文学研究に没頭し、論文「ヴァルター・フォン・デル・フォーゲルヴァイデ(1822)」や「古代高地および低地ドイツ民謡(1844~1845)」などのほか、「詩歌と伝説の歴史のための書」があるという。

(本項は、1972年、平凡社刊「世界大百科事典3」を参照させていただきました。)
文語体訳詩
猪間驥一
(いのま きいち)

明治29年(1896)~昭和44(1969)
京都府生まれ、大正11年(1922)東大経済学部卒、昭和23年(1948)中央大学教授となり、昭和42年(1967)定年退職後、駒澤大学教授を務めた。専門は統計学。著書に「統計図表の見方描き方」、「人生の渡し場」、「なつかしい歌の物語」などがある。

昭和31年(1956)9月13日付朝日新聞(東京版)「声」欄に「老来五十年 まぶたの詩」と題した投書を行い、大きな反響を呼んだ。

昭和36年(1961)ドイツ留学の機会を得たときに、同国ハイデルベルクを訪ね、「渡し場」の楽譜を探し求めたが、カール・レーヴェの作品94-1「Die Überfahrt」に辿り着くことはできなかった。
しかし、帰国後、猪間が依頼したハイデルベルク居住のミーリッシュ老夫妻から新曲楽譜3つ(長い曲と短い曲2つ)、また、同じくハイデルベルク居住で老音楽家のテオドール・ハウスマンから1つの楽譜(長い曲)が届けられた。

猪間驥一は中央大学退職時に告別講演(Farewell address)を行ったが、専門の統計学から離れた演題「中央大学校歌と『惜別の歌』の由来」を敢えて選んだ。このことは、『惜別の歌』の作曲者・藤江英輔が語った経緯が、Webサイト「二木紘三のうた物語」の「惜別の歌(その3)」ページに詳しく紹介されている。「惜別の歌(その1)」ページでは「惜別の歌」(原詩は島崎藤村作「高楼」)の曲が自動演奏される。

なお、「知られざる自由主義経済学者、猪間驥一の一生とその業績をたどった」と著者がいう 次の書籍が、2013年12月に刊行された。
和田みき子著「猪間驥一評伝 日本人口問題研究の知られざるパイオニア」 2013年12月9日 原人舎刊 ISBN 978-4-925169-76-9
文語体訳詩
小出健
(こいで たけし)
昭和3年(1928)~
昭和25年(1950)3月中央大学予科卒
昭和31年(1956)9月13日付朝日新聞(東京版)「声」欄に載った猪間驥一の投書「老来五十年 まぶたの詩」に対し、自らの訳詩を添えて次の内容の書面を送った。
~昭和31年(1956)10月7日付週刊朝日67ページに次のとおり紹介された~ 

(28歳、北多摩郡国分寺町内藤新田)
昭和25年、中央大学予科を間もなく修了するころ、ドイツ語の時間に難波準平講師が、 ザラ紙にタイプした原詩と英訳を学生たちに配った。
「もう来年から教えなくなる諸君に、記念としてこの詩を贈る。諸君も学部に進めばだんだんチリジリになるだろうが、友だちはいつまでも忘れないようでありたい」
というのだった。学生が、迫ってきていた試験の範囲をきくと、「この詩の一節も出しますから、よく覚えておいて下さい。」との返事だった。
難波先生は、センベツだからといったが、学生は、プリント代に1円ずつ集めて差しあげたのも、忘れられない。戦災で両親を失ったせいでもあるんでしょうか、忘れられません。
  














 
 





戦争が終わってかなり経ってから小出健(たけし)が作ったという詩が2つあり、小出健から公開してもよいとの承諾を2012年11月1日(木)に松田昌幸と按針亭管理人が小出健を訪ねた時に得たので、次のとおり紹介させていただきます。

       5月の風

     五月の風の吹く頃は
     紫色の藤も咲く
     地下工場の思い出も
     涙と共によみがえる

     五月の風の吹く頃に
     地下工場の入口で
     太い大きな藤の木が
     私の出入を見てました

     五月の風の吹く頃に
     水のしたたる地の中で
     若きしるしの健康を
     愛する祖国に売りました

     五月の風の吹く頃に
     私の親しき友達が
     肺結核で死にました
     藤の花咲く頃でした

     五月の風の吹く頃は
     紫色の藤も咲く
     地下工場の思い出も
     涙と共によみがえる
       五月の風よ窓に咲け




       猫柳

     三月十日の空襲で
     父さま母さまなくなって
     僕は一人になりました
     多摩川堤の猫柳
     お前もあの夜の火の雨の
     悪魔の呼びを知ってるか

     泣きも暮しもしたけれど
     たずねる人はすでになく
     僕は一人になりました
     多摩川堤の猫柳
     お前も昨年の大水に
     よくぞ一人でたえました

中央:小出健(たけし)、左:松田昌幸(まさゆき)、右:按針亭管理人、2012年11月1日撮影
中央:小出健(こいでたけし)
左:松田昌幸、右:中村喜一
2012-11-1撮影


<注>
小出健が猪間驥一と共訳した「渡し場」が、昭和31年(1956)10月7日付週刊朝日67ページに載っている。本webページ冒頭の「渡し場」は、この週刊朝日に掲載されたもの。
この共訳詩は文語体であり、現在の若い方々には解りにくいところがあろうが、按針亭管理人は同週刊誌が発行された昭和31年(1956)10月にノートに記したものであり、ここでは、文語体訳詩を載せていただく。

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なぜ
「まぶたの詩」?

投書者が 呼びかけた
「ことば」だった

「渡し場」の原詩「Auf der Überfahrt 」は、ライン川支流のネッカー川が流れるチュービンゲンに生まれ育ったドイツ詩人ウーラント(Ludwig Uhland)によって1823年に作られた。

それから約90年後、明治から大正となった1912年頃、明治20年(1887)から3年間のドイツ留学経験がある新渡戸稲造らが、この詩を「友情はかくありたい」といった趣旨で、講話、雑誌、単行本などを通じ、少年少女、学生、一般人に盛んに紹介した。

戦後においても、新渡戸の影響を受けたと思われる教職者が、学生に語り伝えることがあった。やがて、戦後の混乱が落ち着き始め、後に神武景気といわれるときに、「渡し場」の文語体共訳者の一人となった猪間驥一が、昭和31年(1956)9月13日発行朝日新聞(東京版)の「声」欄に「老来五十年 まぶたの詩」と題して次の投書を行った。


「老来五十年、まぶたの詩」と朝日新聞「声」欄で呼びかけた猪間驥一の投書(1956年9月13日掲載)
昭和31年(1956)
9月13日付朝日新聞
(東京版)「声」欄掲載の
猪間驥一の投書
◇老人の日に、一老人の願いをきいていただきたい。次のような内容の詩をご存じ知の方はあるまいか。

◇「渡船に乗って川を越そうとしている老人がある。何十年か前に、彼は親友と連れ立って、同じ渡しを渡ったことがあった。老人のまぶたの裏には、なつかしい亡友のおもかげが、そのかみの数々の思い出につれて浮かんでくる。
『着きましたよ』という船頭の声に、驚いて老人は立上って、渡し賃を払う。一人分の倍額ある渡し賃『船頭さん、それだけとっておいて下さい。お前さんにはお客は一人しか見えなかったろうが、わたしは連れと一緒だったつもりだから』と老人がいった」

◇私は子供のころ、これを少年雑誌か何かで読んだ。そのとき、大きくなって外国語がわかるようになったら、それを読み直そうと思った。そして一、二の外国語を学んで、この詩にめぐり会おうと心がけてきたが、それ以来五十年ついに会えないでいる。子を失い友を失うこと多く、老来、この詩のこころをひしひしと感ずることがしばしばである。これがどこの国のだれの詩か、何の本に出ているか、どなたか教えて下されば幸いである。


この投書に対する反響は大きく、投書者猪間驥一の元に、直接または朝日新聞社を介して原詩を含む関連資料情報が多数の人々から寄せられ、朝日新聞(東京版)学芸欄への投書者・猪間驥一よる『「まぶたの詩」に会うの記』および週刊朝日の『詩 人生の「渡し場」 投書欄に咲いた心の花』として特集された。

資料提供者の中に、原詩と自らの訳詩を提供した、当時20才代の小出健(こいで たけし)がいた。小出は週刊朝日に掲載された文語体訳詩「渡し場」の共訳者となった。
古城街道沿いヒルシュホルンのネッカー川、向こう岸中央高台に中世の城が
古城街道沿い
ヒルシュホルンのネッカー川
川の向こう岸の中央高台に
中世の城(現在はホテル)
下の写真は、この城を拡大撮影
2001年6月15日撮影
古城街道沿いヒルシュホルンのネッカー川沿い高台の中世の城

「週刊朝日」昭和31年(1956)10月7日号66頁に載った記事見だし部分

週刊朝日昭和31年(1956)10月7日号
に載った記事見だし部分

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ウーラントによって1823年に作られた「渡し場」の原詩「Auf der Überfahrt 」を、誰が最初に日本へ紹介したかは、確たるところは不明であるが、「文語体訳詩 誕生の経緯」の項で記したとおり、新渡戸稲造が有力候補であるとするのに、異論は少ないと思われる。

そこで、 新渡戸稲造著「世渡りの道」から「同情の修養」の一節を、「渡し場」の原詩を紹介している一例として、次のとおり掲げたい。

同情と親友に就て思ひ出さるゝのは、ウーランドの詩である。氏は独逸の政治家であると共に一代の大詩人で、六十余年前に最も持て囃された人である。氏の叔父に牧師になった人がある。又氏と同窓で法律を攻め、後に一年志願兵となり、ナポレオンの戦争で戦死した親友がある。氏がネッカル川を渡るとき、この親しき二人の死を想出して詠じた詩は、実に親友に対する熱情を披瀝したものである。

顧みれば数年前曾て一度この川を渡ったことがある。
河畔には当年の古城が依然として夕陽に聳えて居る。
河上にはヤナが昔と変らず淙々として響いて居る。
その時には我の外に二人の友が此の舟に座し共に此河を越えた。
一人は老人で静に世を渡り後ほど静に世を去った。
一人は血気熾(さかん)な青年で、嵐の中に身を処して遂に嵐の為に倒れた。
有りし当時を追懐すれば、何時も二人の面影が現はれる。而も此二人は死の手の為に我より裂かれたるものなるに……
否、否、我が二人と交りて、友よ、友よと親しんだ睦さは、肉の交りにあらざりし。心と心との友誼であった。魂と魂との交であった。
霊的親交なりし上は、ヨシ今肉体はあらなくも、尚親しみは変るまい。
オイ船頭、モ-舟が着いたの-。コレ、三人分の賃銭を払ふから納めて呉れ。
お前の目には見えなかったであらうが、客は我の外に尚二人あった。


親友に対する斯かる切なる情は、自然に磨かれて四囲の人々に対しても、温かき同情を表はすやうになる。その情は決して親しき二人に止まるものではない。ウーランドの心中を更に知らない船頭まで、その恩恵に浴する様なものである。
新渡戸稲造著「世渡りの道」のうち「同情の修養」より(その2)新渡戸稲造著「世渡りの道」のうち「同情の修養」より(その1)
新渡戸稲造全集第8巻
1970年教文館刊
「世渡りの道」から
「同情の修養」の一節
(333~334ページに掲載)


なお、上記一節の直後
334~335ページで
友情論の一環として
新渡戸稲造はウーラント作の
別の詩を「三青年」として
紹介しています。
ただし、この別の詩は、原詩名が
Der Wirthin Toechterlein とう詩で
日本では「宿屋のおかみさんの娘」
または「宿屋の若い娘」などとして
扱われているようです。

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ネッカー川は、ドイツ南西部のシュヴェニンゲン辺りに発し、北上しながら、ウーラントの生地・チュービンゲン、ヒルシュホルン、ハイデルベルクなどを経て、マンハイムでライン川に合流する。ネッカー川の全長367㎞は、ドイツ4番目の長さで、たまたま日本の最長河川である信濃川(367㎞)と同じ長さ。ネッカー川は、1100年頃から約800年にわたり、専ら木材輸送に使われたといわれる。

観光で有名な古城街道は、マンハイムから遡ってハイデルベルク、ネッカーシュタインナッハ、ヒルシュホルン、ネッカーエルツ、ネッカーツインメルン、ハイエルブロンまではネッカー川沿いに走り、ノイエンシュタイン、ローテンブルグなどを経てニュルンベルクに至るが、ローテンブルク付近でロマンチック街道と交差する。
古城街道沿いヒルシュホルンのネッカー川
古城街道沿い
ヒルシュホルンのネッカー川
左中央に貨物船が停泊している
2001年6月15日撮影

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本文語体訳詩「渡し場」は、日本詩吟学院(岳風会)の吟詠教材には収載されていませんが、番外として本ページに収載します。特別扱いで収載する訳は次のとおりです。

本webサイト「按針亭」の管理人が「週刊朝日」に載った本訳詩「渡し場」に初めて出会ったのは、「週刊朝日」が発行された昭和31年(1956)10月上旬の高校3年の時でした。
その折、故あって本詩をノートに記し、以後、既存の歌の旋律をまねるような形で、密かに勝手な節をつけ、半世紀を越えて口ずさんで来ました。

還暦を迎える数年前に詩吟研修を再開後、近代詩を吟じる方法で吟じたいと念じながら、月日が過ぎ去って行きました。やがて、後期高齢期も間近に迫ってきたことから、自ら符付けに取り組み、本『まぶたの詩! 「渡し場」~ルードウィッヒ・ウーラント原作、猪間驥一・小出健共訳~』ページを新設し公開するに到りました。

なお、本「渡し場」ページを作成するに当たり、「ウーラント同窓会」(特に、松田昌幸、丸山明好の両氏)には、資料提供・試作版への助言などで大変お世話になりました。厚意に深謝し厚く御礼申し上げます。

平成24年(2012)10月14日按針亭管理人・中村稲岳記
「週刊朝日」昭和31年(1956)10月7日号67頁掲載の訳詩「渡し場」

週刊朝日昭和31年(1956)10月7日号
猪間驥一・小出健共訳文語体訳詩(上)
記事見だし部分(下)

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