友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
新渡戸稲造 ゆかり
新設:2012-10-14
更新:2024-12-19
 
新渡戸稲造
国立国会図書館デジタルライブラリーより


新渡戸稲造(1862-1933)は、日本国内に留まらず、国際的かつ広範囲な活躍をしたので、新渡戸稲造の"ゆかり"は、広がりが大きい。

そうした中で、国内のほんの僅かではあるが、原則として本WEBサイト[按針亭]管理人が訪ねた所を、写真を添えて紹介する。
ただし 「島松のクラーク記念碑」ではウーラント同“窓”会の会員から写真提供を受けた

☆下方の背景色を伴った文字列枠から それぞれの該当箇所にリンクしている☆


レリーフ「新渡戸稲造萬里子両先生」
上部中央に遠友夜学校の校章
撮影:2024-07-30

東京都内
新渡戸稲造旧宅跡-2013年
撮影:2013-12-23
新渡戸稲造旧居跡(東京都文京区小日向2-1-30付近)
写真1:道路面から1m弱高所の3階建は
使用停止の関東財務局小日向台宿舎⇒【注】

新渡戸稲造旧居跡(東京都文京区小日向2-1-30付近)
写真2:敷地裏口階段右に大樹(クスノキ)
大樹左下に案内板「新渡戸稲造旧居跡」

新渡戸稲造旧居跡(東京都文京区小日向2-1-30付近)
写真3:写真1の右手に立入禁止立札
設置者は関東財務局東京財務事務所


写真1の右端に写っている大樹左下に(写真2参照)文京区教育委員会による案内板「新渡戸稲造旧居跡」が設置されている。内容は次のとおり。


新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)旧宅跡

文京区小日向2-1-30付近

新渡戸稲造 文久2年(1862)~昭和8年(1933) 教育者・農学博士・法学博士

南部藩士の子として盛岡に生まれ、明治4年(1871)に上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京帝国大学専科に学び、さらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。

明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。明治36年京都帝国大学教授、同39年第一高等学校長を経て、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任した。また、拓殖大学の学監(学長)も務めた。その人格主義教育は、学生たちに深い影響を与えた。

日本と外国をつなぐ「太平洋の橋」になりたいと若い時から考え、わが国の思想や文化を西洋に、西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。国際的にも広く活躍し、大正9年(1920)には国際連盟事務局次長となり、”連盟の良心”といわれた。

昭和2年の(1927)帰国の後、太平洋問題調査会理事長となった。きびしい国際情勢のもと、平和を求めて各地の国際会議に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。

当地は、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。
文京区教育委員会
平成25年2月


【注】

当該案内板が設置された2013年の12月23日に、当WEBサイト管理人が「新渡戸稲造旧居跡」を訪ねたことになる。

ゼンリン住宅地図-東京都文京区の1993年版と2004年版には「関東財務局 小日向台宿舎」と記され、脇に「新渡戸稲造旧宅跡」と記されている。
新渡戸稲造旧宅跡-2024年
撮影:2024-10-24
新渡戸稲造旧居跡(東京都文京区小日向2-1-30付近)
写真4:新渡戸稲造旧宅(旧ニトベ・ハウス)跡は
2023年3月に一部4階建ワンルーム賃貸マンション(グランパセオ文京小日向)となった
なお 大樹とその周辺が擁壁で囲われ 前面道路および当該マンションの敷地部分よりも 高く 写真1の2013年時の高さが保持された
この写真4は写真3に近い所から撮ったもの

新渡戸稲造旧居跡(東京都文京区小日向2-1-30付近)
写真5:大樹(クスノキ)は 文京区の保護樹木に指定されて残った ただ 近隣には 地域の環境に馴染まないとするマンション建設反対運動の掲示物が風化が進むも残っていた

写真6:案内板「新渡戸稲造旧宅跡」
写真4の左側に写っている大樹(クスノキ)の右下に 文京区教育委員会による案内板「新渡戸稲造旧居跡」が写真6のとおり設置されている。内容は次のとおりで 2013年時の案内板と実質的に同じ。

新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)旧宅跡

文京区小日向2-1-30付近

新渡戸稲造 文久2年(1862)~昭和8年(1933) 教育者・農学博士・法学博士

南部藩士の子として盛岡に生まれ、明治4年(1871)に上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京大学に学び、さらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。

明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。明治36年京都帝国大学教授、同39年第一高等学校長を経て、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任した。また、拓殖大学の学監(学長)も務めた。その人格主義教育は、学生たちに深い影響を与えた。

日本と外国をつなぐ「太平洋の橋」になりたいと若い時から考え、わが国の思想や文化を西洋に、西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。国際的にも広く活躍し、大正9年(1920)には国際連盟事務局次長となり、”連盟の良心”といわれた。昭和2年の(1927)帰国の後、太平洋問題調査会理事長となった。きびしい国際情勢のもと、平和を求めて各地の国際会議に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。

当地は、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。
令和5年1月
文京区教育委員会


【注】

当該案内板の本文は、上掲2013年版では「~略~ 同校卒業後、東京帝国大学専科に学び、~略~」の部分で「~略~同校卒業後、東京大学に学び、~略~」と一部削除されただけで、その他は同じである。

ゼンリン住宅地図-東京都文京区の2023年版では、建物の平面図は1993年版と2004年版の平面図とは異なり、建物名の記載がなく「新渡戸稲造旧宅跡」の記載もない。

筆者が、新渡戸稲造旧居跡の一部とみられる「文京区小日向2-1-30」の敷地面積をゼンリン住宅地図とGoogle Map を基に大雑把な計算をすると、450~480坪となる。柴崎由紀著『新渡戸稲造ものがたり』は1,200坪と記しているので元の約40%に過ぎない。恐らく往時の敷地は、道栄寺南側で、現「文京区小日向2-1-30」の南側にも700坪強の広がりを持っていたと思われる。
道栄寺は、人文社刊『古地図・現代図出歩く明治大正東京散歩』の明治40年1月調べの古地図や現在地図にも記されている。

文京区役所のサイトによると、ニトベ・ハウスがあった場所は明治37年(1904)時に「小石川小日向台町一丁目75」としており、同所は上述の人文社刊の書籍78頁に記載がある。
また、人文社刊の同書が使用した明治40年1月調べ「小石川区全図」の原図と思われる地図を国際日本文化研究センター(日文研)サイトから閲覧でき、閲覧画面から地図を拡大して見ることもできる。
新渡戸稲造の墓所と坐像
撮影:2024-11-15
新渡戸稲造墓域入口
奥に新渡戸稲造の墓碑

誕生の8日目に、長男遠益(トーマス)を亡くされた新渡戸稲造・萬里子(メリ―)夫妻の「子を憶う」こころが察せられる

東京都多摩霊園の7区1種5側11番


多摩霊園には札幌農学校で同期の親友・内村鑑三の墓があり、南原繁と矢内原忠雄の墓もある
中央に新渡戸稲造の墓碑
左に新渡戸稲造一家の墓誌
右に夭折した長男遠益の墓碑
新渡戸稲造一家の墓誌
新渡戸稲造夫妻・長男ら
新渡戸稲造の墓碑
長男遠益の墓碑
新渡戸稲造の墓所は、この写真に写っている
「東1号通り」の右側(北側)歩道に面してある
さらに、右歩道の奥に新渡戸稲造の坐像がある
新渡戸稲造坐像 左前方より


多摩霊園内に設置の新渡戸稲造坐像は、7区1種の5側と7側の角地にある

新渡戸稲造の墓所は、新渡戸稲造坐像の右手「東1号通り」の歩道に面している

新渡戸稲造坐像 右前方より
多摩霊園内バス通りの停留所「霊園南七号地」付近から7区1種の5側と7側を望む
左に停車中のバスはJR武蔵小金井駅方面行きバス
西武線多摩霊園駅行きバス停は写真右側外直ぐの所
写真右端に新渡戸稲造坐像が写っている
東京英語学校跡(神田一ツ橋)
撮影:2024-10-21


写真1:「東京外国語学校発祥の地」碑
学術総合センターの如水会館寄に設置
左端境界壁を含む左は如水会館
その境界壁貼付のプレートの文字は
一ツ橋 2町目1番地1 一神町会
新渡戸(太田)稲造は、1873年11月 神田一ツ橋に新設の東京外国語学校に入学、1874年12月 東京英語学校、1877年4月 東京大学予備門と改称された後に中途退学のうえ札幌農学校第2期生となった。
その跡地には、次の「東京外国語学校発祥の地」碑が設置されているが、現在の一橋大学、東京大学教養学部の発祥の地でもある。

東京外国語学校発祥の地
東京外国語大学の起源は安政4(1857)年に創設された蕃書調所まで遡るが、直接の前身である東京外国語学校が開設されたのは、明治6(1873)年11月1日、この地(当時の東京府神田区一ツ橋通町一番地)においてであった。東京外国語大学はこの日を建学記念日として、ここに碑を建立する。
平成14(2002)年3月27日
東京外国語大学



写真2:学術総合センター(正面入口)
写真手前は白山通りの一ツ橋交差点
画面左側先に[写真1]の碑がある
新渡戸記念中野総合病院
撮影:2024-11-15
新渡戸記念中野総合病院
病院正面入口の左前方から

新渡戸記念中野総合病院
大久保通り向かいから

新渡戸記念中野総合病院
大久保通り病院側歩道から

公式の新渡戸記念中野総合病院サイトによれば、病院の歴史は次のとおり

病院の正式名称は「東京医療生活協同組合新渡戸記念中野総合病院」で、新渡戸稲造・賀川豊彦らにより1932年(昭和7)に「東京医療利用組合」として創立された、日本で最初の組合病院

「東京医療利用組合設立趣意書」には、次のとおり謳われている
疾病に対する治療は、人間の最も尊貴なる生命の保護として、貧富、高下、都鄙の別なく享受せられなければならぬ」「個人としての医師の及ばない経済上の問題を解決し、更に医療上に於ても、各専門医の協力と綜合による組織的医療を行い得ること、進んで治療の根本問題であるところの組合員の保健即ち予防医学まで誠意を以て徹底的な貢献を為し得る点に於て、特色を持つものであります。
この設立趣意書は、東京医療利用組合は十分かつ高度の医療を全ての人々が安心して受けられる医療機関を提供する事を目指したもので、日本における市民健康保険組合の最初のもので、現在の日本の健康保険制度の基になった。

1932年(昭和7)5月27日に設立の認可を受け、同年9月 「新宿診療所」を開設
1933年(昭和8)12月 中野に「中野組合病院」を開設
1948年(昭和23) 消費生活協同組合法が施行
1950年(昭和25)9月に「東京医療生活協同組合中野組合病院」と改称
1965年(昭和40)10月 現在の病院建物「中野組合病院」が全館竣工落成
1966年(昭和41) 総合病院の承認を受け 1969年(昭和44)「中野総合病院」と改称
1973年(昭和48) 主に東京医科歯科大学の関連病院となった
1981年(昭和56) 中野総合病院の外来人工透析施設「中野クリニック」を創設
1996年(平成8)「新渡戸記念訪問看護ステーション」を創設
1997年(平成9) 「東京都災害拠点病院」及び「臨床研修病院」に指定された
2000年(平成12) 「東京医療別館」落成、同館内に「中野クリニック」「新渡戸記念訪問看護ステーション」を収容、「中野総合病院指定居宅介護支援事業所」を開設
2007年(平成19) 中野総合病院に療養病棟を併設

2015年(平成27)10月、当院設立の原点に立ち帰って、新渡戸稲造博士の精神を基にした医療を実践し、疾病を抱えた人を真心で支援することを目標とするため、「新渡戸記念中野総合病院」と改称
2016年(平成28) 療養病棟を廃止し 全病棟を急性期病棟とした
2017年(平成29) 2号館落成

★「新渡戸」を冠した施設と組織が複数あり、次のとおり★
新渡戸訪問介護ステーション、新渡戸記念中野総合病院居宅介護支援事業所
新渡戸記念中野総合病院訪問リハビリテーション
新渡戸稲造記念センターがん哲学外来
北海道大学札幌キャンパス
新渡戸稲造顕彰碑(胸像)
撮影:2024-07-30
新渡戸稲造顕彰碑(胸像)正面
花木園に入ると直ぐに目にとまる
左通路は花木園散策路

新渡戸稲造胸像アップ


台座表面に刻まれた新渡戸のサインと
新渡戸 若き日の著名なことば
I wish to be a Bridge across the Pacific
  第二次世界大戦前の日本を代表する国際人・教育者であり、「五千円紙幣」の肖像としても知られる新渡戸稲造博士(1862-1933)は、明治14年、二期生として札幌農学校を卒業した。博士にとって札幌は、キリスト教に基礎をおく人格と、広い学識を身につけた「精神的誕生地」である。卒業後の一時期、開拓使御用掛に籍を置き、黎明期の北海道開拓に力を尽くしたが、学問への情熱断ちがたく、明治16年、東京大学に再入学した。さらに、アメリカ、ドイツに留学し、米国人の妻・メリー夫人を伴って帰国した博士は、明治24年から7年間、母校の札幌農学校教授として、当時閉校の危機にあった農学校の立て直しと学制改革に尽力し、のちの北海道大学の基礎を築いた。勤労青少年のための教育施設である遠友夜学校の創設(明治27年)も、農学校教授時代の貴重な遺産である。その後、博士は京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長などを歴任し、人格、社会性、教養を重視した教育によって戦前・戦後の教育界に多大な影響を与えた。さらに、名著『武士道』による日本の精神文化の紹介、国際連盟事務次長としての平和文化活動は、博士の名声を国際的に高めることになった。
 この顕彰碑は、北海道大学が札幌農学校創立から数えて120年を迎えるのを記念し、卒業生を中心とした数千人の篤志家の浄財によって建立された。碑文の一句は、博士の英文著作から引用した。「太平洋の橋にならん」とした、若き日の理想を語ったものであり、サインは直筆である。
    1996年10月7日
新渡戸稲造博士顕彰碑建立事業会
発起人代表 堂垣内尚弘
碑文揮毫 丹保憲仁
彫刻制作 山本正道

【注】
上記の建立経緯は、像の台座裏面に縦書で記されたパネルがはめ込まれており、ここでは 年数の漢数字をアラビア数字に置き換えた
台座の表面は、新渡戸稲造の直筆で次のとおりと彫られている
Inazo Nitobe  I wish to be a Bridge across the Pacific
新渡戸稲造顕彰碑(胸像)台座
裏面はめこみの顕彰碑建立趣意

花木園散策路西側のポプラ並木
新渡戸夫人寄贈のハルニレ
撮影:2024-07-30
北海道大学札幌キャンパス正門近く
北側の事務局前に新渡戸夫人寄贈のハルニレ
写真右の南側にも同ハルニレ大木

上掲写真中央のハルニレ大木右下に設置の
新渡戸夫人寄贈ハルニレの解説板
新渡戸夫人寄贈のハルニレ

この木は、学名・ハルニレと言い、1905年(明治38年)春、新渡戸稲造夫人メリー(和名、万里)氏の寄贈により植樹されたものである。

 夫人はフィラデルフィアの富豪エルキントン家の娘で、新渡戸が24歳の時、アメリカ留学中に知り合う。その翌年、新渡戸は札幌農学校の助教に任命されるが、農政学研鑽のためドイツに留学、4年後の1891年(明治24年)留学を終えた新渡戸29歳の時結婚する。そして札幌農学校に赴任する新渡戸と共に来日、札幌で7年間を過ごす。
 新渡戸は、1894年(明治27年)長年の夢であった夜学校(遠友夜学校と命名)を開設するが、その資金はメリー夫人の実家から送られてきた遺産が元になったという。
 夫妻は精魂込めて学生達に学問を吸収させるが、4つの学校をかけ持ちするなど激務のため、共に健康を害し、1897年(明治30年)療養のため気候温暖なカリフォルニアに渡る。

 古記によれば、夫人は札幌を離れても学生を慈しみ、札幌農学校を想う心篤く、本校の校舎新築に際しハルニレ24本を寄贈せられ、宮部金吾教授の細心の注意の下、路傍樹として校内各所に植樹されたとある。  そのとき正門付近に植えられた5本(事務局前2本、南向い3本)がこの樹であり、樹齢はおよそ百年である。
2002(平成14年)11月」

Ulmus davidiana var. japonica Nakai
ハルニレ:
ニレ科 一名アカダモ エルム(Elm)はニレの英名
分布 = 日本各地 樺太 千島 朝鮮 中国北部 東シベリアなど北国を代表する木で北海道には大木がみられる
花は春に咲く 材は堅く家具・床材などに用いる


Japanese Elm donated by Mary Nitobe
 This elm tree, whose scientific name is “Ulmus davidiana var. japonica”, was planted in the spring of 1905 as a gift from Mary P. E. Nitobe (Japanese name; Mari Nitobe), wife of Inazo Nitobe.

 Mary was the faughter of wealthy Elkington family of Philadelphia, whom Inazo met while studying in the U.S. when he was 24 years old. Inazo was appointed as an assistant professor at Sapporo Agricaltural College in the following year but went to Germany to study agricultural policy. Four years later in 1891, when he finished his studies, Inazo married Mary at thw age of 29. Mary then came to Japan with Inazo who was assigned to Sapporo Agricultural College and spent seven years in Sapporo.
  In 1894, Inazo opened an evening school named “En-yu Night School”, which had been his dream for many years and is said to have been funded by an inheritance sent from Mary's parents' estate.
 While the couple devoted them selves to helping their sutudents gain academic knowledge, their health deteriorated due to the hard work of teachung simultaneously at four different schools. In 1897, the couple finaly moved to California to recuperate, where the weather was warmer and milder.
 According to University Archives, Mary cared deeply for the students and Sapporo Agricultural College even after leaving Sapporo and donated 24 elm trees to celebrate the construction of the new school building. Under the meticulous care of Professor Kingo Miyabe, the trees were planted as roadside trees in various places on campus. The five trees planted at that time near the main gate (two in front of the Administration Bureau and three accross the street in the south) are new approximately 100 years old.
Novenber 2002


Ulmus davidiana var, japonica

Japanese Elm (Harunire) - family: Ulmaceae (elm family). alias; Akadamo
Distribution. Throughout Japan, Sakhalin, the Kuril Islands, Korean Peninsula, Northern China, Eastern Siberia. etc.

The specics represents the northern part of Japan and large-sized ones are found in Hokkaido.
Its flowers bloom in thr spring. The wood is hard and used for furniture, flooring, or other purposes.
大学文書館の遠友夜学校関係資料
撮影:2024-07-30
北海道大学文書館のリーフレット「遠友夜学校略史―50年の変遷―」によれば、

「遠友夜学校関係資料」は、1964年に遠友夜学校の財団法人が解散する際、札幌市が財団法人から受贈に伴い「遠友夜学校記念室」を設けて資料を展示し、広く遠友夜学校の活動・歴史を紹介してきた。

2014年7月、北海道大学は札幌市から貴重な「遠友夜学校関係資料」575件の寄贈を受け、北海道大学文書館の良好な環境での保存・活用を開始した。

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■大学文書館のリーフレット「遠友夜学校の歴史」コチラから開きます

〔展示〕遠友夜学校の歴史が、大学文書館年報第16号の一部としてコチラから開きます(ただし、上部のフルテキスト欄にある[見る/開く]のクリックでPDFファイルがダウンロードされます)

■大学文書館作成の仮目録「遠友夜学校関係資料」が、コチラから開きます

大学文書館では、事前に閲覧を申請すれば「遠友夜学校関係資料」を閲覧できるとのこと、同文書館のWEBページはコチラから訪ねて下さい。
同利用案内はコチラから、同沿革資料(個人・団体等資料)の利用はコチラから訪問を

【注】
北大文書館は、北大正門から真っ直ぐ進んだ後に、やや左に進むと「クラーク会館」があり、その「クラーク会館」正面に向って右手に進んだところにある

本コーナー作成に当たり、大学文書館の山本美穂子様にお世話になりました。有難く御礼申し上げます。本サイト管理人が北大訪問時に、準備不足で文書館を訪ねることができませんでした。


クラーク会館
大学文書館は、この右手にある

クラーク像(古河講堂前)
撮影:2024-07-30
クラーク像

クラーク会館から北に向う道路の右角に建つ

札幌農学校2期生であった新渡戸稲造らは
クラークに会うことは無かった。しかし、
1期生や教官らからクラークの教えを学んだ

北大札幌キャンパス内には
外に 複数のクラーク像があるという
ウィリアム・S・クラーク像

明治9年(1876年)、北海道開拓の人材を育成するため札幌農学校が開設され、教頭としてアメリカのマサチューセッツ農科大学学長、ウィリアム・S・クラークが着任した。

彼は、わずか9ヶ月の滞在中に精力的に農学校の基礎づくりにはげみ、キリスト教に基づいた教育は学生たちに大きな影響を与えた。

帰国に際し残した
 ”Boys, be ambitious!” の言葉は、
今なお深い感銘を与えている。

【さっぽろ・ふるさと文化百選】

令和5年3月
札幌市北区役所
クラーク像

胸像の台座には上から
クラークのサイン
BOYS, BE AMBITIOUS
植物園の宮部金吾記念館
撮影:2024-08-01

宮部金吾記念館(北大附属植物園内)
建物左端前に案内板「宮部金吾記念館」

北大附属植物園内の樹木の中心をなす
ハルニレの林での散策を楽しむ家族連れ
散策路の奥に小さく写っている

「ハルニレの林」の解説板
宮部金吾記念館

 宮部金吾(理学博士、1860-1951)は、明治10年札幌農学校二期生として、内村鑑三、新渡戸稲造、南鷹次郎、町村金彌らと学び、業を卒えて東京大学、更にハーバード大学の学位を受け、母校に奉職して今日の北海道大学発展に深く寄与し、北海道、千島、樺太を踏破して北辺の植物研究に携わった。明治16年植物園の設計に参画し、初代園長として永年当園の完成に尽くした。昭和2年退職後も、昭和26年91歳の一生を終えるまでひたすら学究の日を送り、こよなく当植物園を愛された。内に帝国学士院会員として活躍し、外に多くの海外学会の名誉会員に推され、更に昭和21年文化勲章を受章した。

 又、青年寄宿舎舎長として有為の青年を育成し、札幌独立教会設立者の一人として敬虔な清教徒の生涯を過ごし、昭和24年90歳の賀に、最初の札幌市名誉市民の称号を受け、市民敬慕の的となった。

 平成2年、子息一郎氏の御厚意により遺品が寄贈されたのを機に、博士の薫陶を受けた農業生物学科卒業生を中心として記念館設立の要望が起こり、北大当局、農学部、札幌同窓会の支援を得て、平成3年実現に至った。当記念館はかって博士が講義、研究された札幌農学校植物学教室(明治36年現在の農学部南翼に建築)を昭和17年現在地に移設し、永く園長室、園事務所とした由緒ある建物の一部である。



登録文化財 北海道大学附属植物園庁舎

宮部金吾記念館
 1901(明治34)年 竣工
 1942(昭和17)年 キャンパスより移築
 札幌農学校キャンパスで動植物学講堂として用いられてきた建物の東半部植物学教室部分を移築したものです。1988年まで植物園庁舎として利用されていましたが、1991年に北半分を取り壊し、初代植物園長の宮部金吾博士の遺品を展示収蔵する記念館として利用されることになりました。
 博物館旧事務所および便所と同時に、中條精一郎による設計の建築と考えられ、明治末の札幌農学校の建築様式を今に伝えています。


【注】
宮部金吾は、新渡戸稲造、内村鑑三と共に、東京英語学校から校名が変わった東京大学予備門を中退し、札幌農学校2期生に転じた親友同志であった。新渡戸夫人がハルニレ樹木24本を寄贈したときには、宮部金吾がキャンパス内各所に移植を行った。そのハルニレの一部は北大正門近くに現存する。
按針亭管理人が宮部金吾記念館を訪ねたときには、新渡戸稲造に関わる資料が幾つも展示されていたが、撮影が禁じられていた。

札幌市内
新渡戸稲造記念公園
撮影:2024-07-30
新渡戸稲造記念公園の全景を西側から
新渡戸稲造記念公園(札幌市中央区南4条東4丁目)の西側入口から
中央やや右手奥に写真3の碑と像が写っている
ここは、新渡戸稲造夫妻が創立した遠友夜学校の跡地である

写真1:東側入口に設置のコンクリート壁に
「新渡戸稲造記念公園」と表記のプレート
当壁左後方に右に記す新渡戸の言葉碑がある
新渡戸稲造が好んで使った言葉2つの碑

☆西側出入口にある表示プレート☆
 With malice toward none,
 With charity for all.
 誰に対しても悪意を抱かず、
 すべての人に慈愛の心を持って。
 -Abraham Lincoln

☆東側出入口にある表示プレート☆
 I wish to be a Bridge
 across the Pacific.
 願わくは、われ太平洋の橋とならん。
-新渡戸稲造

写真2:右奥の壁には写真1と同じ公園名が表記され、左手前の壁のプレートには新渡戸稲造が好んだリンカーンの言葉(左記)を表示

写真3:
左碑:「新渡戸稲造の精神を受け継ぐ
札幌遠友夜学校跡地」碑
右像:「学問余(よ)里(り)実行」像

写真4:「学問余(よ)里(り)実行」像

写真5:
レリーフ「新渡戸稲造萬里子両先生」
写真4の一部を拡大

新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)の精神を受け継ぐ札幌(さっぽろ)遠友(えんゆう)()学校(がっこう)(あと)()

 この土地は、1894年(明治27年)新渡戸稲造が勤労青少年や晩学者のために開設した男女共学の無料の私設夜間教育施設「札幌遠友夜学校」の跡地です。

 当時札幌農学校の教授であった新渡戸稲造は、妻メリー夫人の実家に引き取られて育った孤児の女性から遺贈された1000ドルをもとに古家付き土地を購入して学校とし、主に札幌農学校(のち北海道大学)の学生たちが無償で教育に当たりました。女子に対する裁縫等の教育は地域の女性たちが協力しました。1944年(昭和19年)に閉校するまでの50年間に数千人が学び、1000人以上もの卒業生を世に送り出しました。

 その後、運営母体の財団法人札幌遠友夜学校から市に無償譲渡されたこの土地に、1964年(昭和39年)札幌市勤労青少年ホームが建設され、1979年(昭和54年)新渡戸稲造博士顕彰会により、札幌出身の彫刻家山内壮夫制作の「新渡戸稲造萬里子両先生顕彰碑」が前庭に建設されました。

 そして、2011年(平成23年)レッツ中央(旧札幌市勤労青少年ホーム)が解体されたことをうけて、2015年(平成27年)地域の交流拠点となり新渡戸稲造の精神を受け継ぐ「新渡戸稲造記念公園」として整備されました。

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「新渡戸稲造の精神を受け継ぐ札幌遠友夜学校跡地」碑の下に埋込プレート2つあり
  左下埋込プレート:札幌遠友夜学校跡地 半澤洵書
  右下埋込プレート:創立年月日 明治二十七年六月十八日 創立者 新渡戸稲造


立像:「学問余里実行像」(新渡戸稲造夫妻顔レリーフを持つ青年像)
台座に刻まれた文字は、学問余里実行 (学問より実行)
新渡戸稲造直筆で右側から書かれているがココでは左側からで表記
立像の「新渡戸稲造夫妻顔レリーフ」下部に刻まれた文字は
左から「新渡戸稲造萬里子両先生」→レリーフ部分拡大の「写真5」参照

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【校名に冠した[遠友]の由来】
  1. 遠友夜学校創設資金には、新渡戸稲造の萬里子(メリ―)夫人の実家(エルキントン家)が孤児を引取って家族の一員として養育した女性が、遺言でメリー夫人に贈った1000ドルの遺産に加え、メリー夫人の弟ジョセフやフィラデルフィアのクエーカーの友人らから寄せられた浄財が当てられた。このように、遠くアメリカに住む友からの支援があったことを踏まえて「遠友」を冠した校名としたが、孔子の「朋有り、遠方より来たる、亦た楽しからずや」に通じるものといえる
  2. 新渡戸稲造が生涯の座右の書とした『サーター・レザータス』(衣服哲学)の著者であるトーマス・カーライル(1795-1881)から「トーマス」を貰って「遠益(ト―マス)」と名付けた長男(誕生8日で夭逝)の名から1字を採ったものでもある

【遠友夜学校関係資料】
北海道大学大学文書館の資料「遠友夜学校略史―50年の変遷―」によれば
  1. 「遠友夜学校関係資料」は、1964年に遠友夜学校の財団法人が解散する際、札幌市が財団法人から受贈に伴い「遠友夜学校記念室」を設けて資料を展示し、広く遠友夜学校の活動・歴史を紹介してきた。
  2. 2014年7月、北海道大学は札幌市から貴重な「遠友夜学校関係資料」575件の寄贈を受け、北海道大学大学文書館の良好な環境での保存・活用を開始した。
  3. 北大文書館の遠友夜学校関係資料

旧札幌農学校演武場(時計台)
撮影:2024-08-01
旧札幌農学校演武場(時計台)


旧札幌農学校演武場(時計台)の解説板
重要文化財 旧札幌農学校演武場 (時計台)

 この建物は、日本最初の農業高等専門学校として、明治9年8月にクラーク博士を初代教頭に迎えて開校した札幌農学校の演武場であります。
 演武場は、講堂をかねた兵式教練場として第2代教頭ホイラー博士によって計画され、当時の米国中・西部開拓地の木造建築様式にならって北海道開拓使工業局の設計監督のもとに建築され、明治11年10月16日に完成しました。
 時計塔は、明治14年に米国ボストン市ハワード時計会社製の時打ち重錘式の大時計を備えて設置され、8月12日の正式鳴鐘以来現在も往時の姿のまま時を告げ続けております。
 北海道大学の前身である札幌農学校は、北海道の開拓や日本文化の発展に寄与する多くの人材を育成しましたが、彼らに愛され親しまれた時計台の鐘の音は札幌のシンボルといわれております。
 時計台は公共的な施設として時代の変遷のなかで広く利用され、札幌のそして北海道の教育・文化の発展に大きな役割を果たし、昭和45年6月国の重要文化財に指定され、現在は館内を札幌歴史館として一般公開しております。
 時計台は、札幌市の歴史と文化を象徴するものとして “わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です”と札幌市民憲章前章にうたわれ、市民の誇りとなっております。
札 幌 市      

 The “Tokeidai” (Clock Tower) was originally built as a drill hall for the Sapporo Agricultural College, which was established in 1876 as the first agricultural institute in Japan.
 The building was erected in 1878 in the style of wooden architecture used in frontier lands of the United States in those days.
 The large clock, manufactured in the U.S.A., has kept telling time since it was installed in 1881.
 The Clock Tower, which houses the Exhibit Hall, is now an important national cultural property owned by the City of Sapporo.



【注】
時計台の公式サイトによれば
1903年(明治36)に農学校が移転した際、演武場は当時の札幌区が借り受け、演武場は「時計台」と呼ばれるようになった。1906年(明治39)、札幌区は時計台を買い上げ、道路整備のため時計塔をつけたまま100m程南に曳家、農学校の寄宿舎があった位置にあたり、以後この場所が時計台の安住の地に
創建時の元の場所に近い歩道上に「演武場跡」の石碑が建っている(この碑は、1962年(昭和37)一市民の奉志で建てられたもので、揮毫は農学校19期生星野勇三北海道大学教授の筆による)と伝えている
さっぽろ 羊ヶ丘展望台のクラーク像
撮影:2024-07-31


さっぽろ羊ヶ丘展望台のクラーク像
台座に BOYS BE AMBITIOUS とある
札幌市豊平区羊ヶ丘

クラーク像の台座裏面に次のとおり刻まれている

 ウイリアム・スミス・クラーク先生は明治9年秋、開校した札幌農学校の礎えを据えるため開拓使に招かれた。50歳であった。
 僅か8ヶ月の間に、フロンティア精神を植えるとともに偉大なる業績と感化を遺し、明治10年4月16日
島松で別れを惜しむ学生に対し馬上から
「ボーイズ・ビー・アンビシャス」少年よ大志を抱け
と叫んで帰国された。
 明治19年3月9日、60歳で北米アマストにて昇天される。
 在天の霊、希くば安かれ……

   昭和51年4月16日
        札 幌 市 長    板垣武四
        札幌観光協会会長   今井道雄


クラーク博士が別れを告げたのは、ここ羊ヶ丘ではなく、上記の「島松」とのこと、北広島市のWEBサイト「旧島松駅逓所(国指定史跡)」および札幌市清田区にある「あしりべつ郷土館」の公式サイトを参照ください。
後者のWEBサイトによると、クラークが別れを告げたとき、島松駅逓所は現在の恵庭市側にあって現在の北広島市側にはなかったとするものです。
なお、北広島市側の旧島松駅逓所跡にはクラーク碑が建ち、上部にクラーク博士顔のレリーフがある。
島松のクラーク記念碑


写真1
島松のクラーク記念碑
写真提供:釜澤克彦
撮影:2019-05
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写真2
旧島松駅逓所
写真提供:釜澤克彦
撮影:2019-05
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写真1の中央に写っている高い碑が
島松の「クラーク記念碑」

(碑の上部に) クラークの顔レリーフ
(レリーフの下に)  BOYS
BE AMBITIOUS
W.S.CLARK
1877 4 16
(縦書で) 青年よ大志を懐け
ウヰリアム、エス、クラーク

なお、札幌市清田区にある「あしりべつ郷土館」の公式サイトによれば、裏面に次のとおり刻まれているという

偉人クラーク博士、訣別に当り、千古の金言を叫びしは実にこの地なり
建碑、これを記念し、青年の奮起を望む
昭和二五年一一月 クラーク奨学会
発起人代表 宮部金吾 設計製作 山内壮夫
石師 五十川恵勇


◆大島正健著、大島正満・大島智夫補訂『クラーク先生と その弟子たち』1991年2月1日 新地書房刊(以下、改訂増補版と記す)によると、クラークの別れの言葉は「BOYS BE AMBITIOUS」の後に「like this old man」が続く

◆クラークの別れの言葉が、前半部分に簡素化されて広まったのは、札幌農学校1期生の大島正健が旧制甲府中学(現甲府一高)の校長であった1901-1914年に「Boys, be ambitious!」を校是とし(現甲府一高でも校是の1つ)石橋湛山らに大きな感化を与え、さらに 大島正健が、病床にあって口述し、長男大島正満が筆記のうえ、1937年7月に帝国教育会出版部から上梓した『クラーク先生とその弟子達』から、 戦後1947年の学制改革で誕生した新制中学2年用の国語教科書『中等国語 二 2』に、「クラークらが乗船した玄武丸の小樽入港から、島松の別れでの “Boys be ambitious!” まで」が「クラーク先生 」として採録され、全国に広まった。
ここ島松の「クラーク記念碑」建立発起人代表で札幌農学校2期生の宮部金吾は、大島正満から文部省教科書に「クラーク先生」として採録される旨の報告を受けていた

◆クラーク博士が別れを告げた1877年(明治10年)時の島松駅逓所は、このクラーク記念碑が建っている北広島市側ではなく、島松川の反対の恵庭市側であったと、札幌市清田区にある「あしりべつ郷土館」の公式サイトは説き、そのことを北広島市教育委員会公式サイトでも次項のとおり実質的に認めている

◆北広島市教育委員会公式サイトでは「旧島松駅逓所(国指定史跡)」にて 次のとおり説明している
島松駅逓所と中山久蔵
島松駅逓所は、明治6年(1873年)に札幌本道(現在の国道36号)の開通に伴い、官設駅逓所として島松川の右岸(胆振国千歳郡島松村、現在の恵庭市)に設置されたのが始まりです。初代取扱人は勇払場所の総支配人でもあった山田文右衛門でした。
明治17年(1884年)からは、現在の北広島市島松で赤毛の栽培に成功し、「寒地稲作の祖」と称される中山久蔵が4代目の駅逓取扱人となり、明治30年(1897年)の島松駅逓所廃止までその経営にあたりました。

◆札幌農学校1期生の大島正健と同校2期生の新渡戸稲造、宮部金吾、内村鑑三らとは親交があり、大島正健は新渡戸稲造について「改訂増補版」に次のとおり記している
「何日の何時に来て呉れ、その日は来客を断って君を待っている」という呼び出しを私はしばしば受取った。君は私を話し相手にほしかったのである。