友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
新渡戸稲造 略年譜
新設:2012-10-14
更新:2024-12-01

本「新渡戸稲造の略年譜」は 次の文献資料などを参照して作成した
1.教文館刊『新渡戸稲造全集』
2.草原克豪著『新渡戸稲造 1862-1933 我、太平洋の橋とならん』
3.柴崎由紀著『新渡戸稲造ものがたり (普及版)』
4.新渡戸稲造著『世渡りの道』
5.山岡柏郎(望)著『向陵三年』
6.山岡望著『六稜史筆』
7.新渡戸稲造記念公園(札幌市)に建つ「新渡戸稲造萬里子両先生顕彰碑」と「解説碑」

【注】年令は数え年
西暦 和暦 年令 事項
1862 文久 2  1才 旧暦8月8日(新暦9月1日) 盛岡市で南部藩士新渡戸十次郎の三男として誕生(幼名稲之助)
1867 慶応 3  6才 父十次郎永眠
1871 明治 4 10才 叔父太田時敏の養子(太田姓)となり上京し、 築地外人英学校に入学
1872 明治 5 11才 盛岡藩の英学塾である共慣義塾に入学
1873 明治 6 12才 11月 神田一ツ橋に新設の東京外国語学校に入学
1874年12月 東京英語学校、1877年4月 東京大学予備門と改称
1876 明治 9 15才 明治天皇東北巡幸の際の下賜金で英語の聖書を買う
1877 明治10 16才 東京大学予備門を中退し、9月 札幌農学校に第2期生(公費生)として入学、 10月 「イエスを信じる者の誓約」に署名
1878 明治11 17才 6月 ハリス師より洗礼を受ける(内村鑑三、宮部金吾とともに)
1880 明治13 19才 母勢喜永眠(死に目に会えず)
トーマス・カーライル著『サーター・レザータス』(衣服哲学)を ハリス師から東京で譲り受け「座右の書」となる
1881 明治14 20才 7月 札幌農学校卒業し、開拓使御用掛を拝命
1882 明治15 21才 開拓使廃止され農商務省御用掛となり、併せて札幌農学校予科教授を兼務
1883 明治16 22才 東京の成立学舎で英語を教えながら 9月 東京大学文学部の専科生として入学し、英文学、理財、統計を学ぶ
面接試験で「われ太平洋の橋たらん」と語る
1884 明治17 23才 8月 東京大学退学 9月 私費にて渡米 アラゲイニ大学入学
10月 ジョンズ・ホプキンス大学に転じ 経済学、歴史学等を3年間学ぶ
1885 明治18 24才 モリス邸でのクエーカーの集会に出席 翌年クエーカーとなる
1887 明治20 26才 札幌農学校助教となり 農政学研究のため3年間のドイツ留学を命じられる
5月 アメリカを発ち、10月から独国ボン大学で農政学、農業経済学を学ぶ
1888 明治21 27才 10月 ベルリン大学に転じ、農業史、統計学を学ぶ
1889 明治22 28才 4月 長兄七郎死去に伴い、新渡戸姓に復し、同4月 ハレ大学に転じ、農業経済学、統計学を学ぶ
1890 明治23 29才 ハレ大学から哲学博士と文学修士の学位を受け、ジョンズ・ホプキンス大学から文学士号を受ける
7月 ドイツ留学を修了し 植民政策研究のため ドイツ東部 米国 カナダ各地を訪問
1891 明治24 30才 1月 メリー・エルキントン嬢とフィラデルフィアで結婚し帰国(メリーは萬里子と改名) 札幌農学校教授兼北海道庁技師
1892 明治25 31才 長男遠益(トーマス)誕生するも1週間後に逝去、萬里子夫人は産後の経過が悪く静養のため渡米(稲造同伴)
1894 明治27 33才 萬里子夫人帰国、夫妻協力して勤労青少年や晩学者のために男女共学で無料の私設夜間教育施設「遠友夜学校」を創設
1897 明治30 36才 幾つもの職務遂行の激務により、体調不良に陥り、札幌農学校を休職のうえ鎌倉で静養
1898 明治31 37才 札幌農学校を辞職 沼津、伊香保で静養しながら『農業本論』を口述筆記にて出版、カリフォルニアに転地療養
1899 明治32 38才 アメリカで 名著『Bushido--The Soul of Japan』(武士道--日本の魂)を執筆
翌1900年1月 米国フィラデルフィアのリーズ・アンド・ビドル社より刊行、農学博士となる
1900 明治33 39才 後藤新平から三顧の礼で勧誘され、台湾総督府勤務を承諾、熱帯農業調査のため欧州視察、パリ万国博審査員
1901 明治34 40才 1月 帰国、2月 台湾総督府技師、5月 同殖産課長 「糖業改良意見書」提出 殖産局長心得として南洋出張
1902 明治35 41才 後藤新平台湾民政長官に随行して欧州視察に出発 臨時台湾糖務局長
1903 明治36 42才 欧米から帰国、10月 京都帝国大学法科大学教授を兼任
1904 明治37 43才 台湾総督府嘱託となり、京都帝国大学専任教授となる
1906 明治39 45才 京都帝国大学から法学博士の学位を受ける 9月 第一高等学校校長に就任し、東京帝国大学農科大学教授を兼任
1909 明治42 48才 実業之日本社顧問として『実業之日本』誌に勤労青年向けの人生訓を連載 東京帝国大学法科大学植民政策講座担当教授となる(一高校長と兼任)
1910 明治43 49才 内外の訪問客からニトベ・ハウスと呼ばれることになる新居を小石川区(現文京区)小日向に設け引越
1911 明治44 50才 8月 第1回日米交換教授として渡米し 1年間に166回の講演を実施、9月『修養』を實業之日本社から出版
1912 大正元 51才 9月 米国から帰国 実業之日本社顧問を辞任
10月 『世渡りの道』を實業之日本社から出版、書中でウーラント作詩「渡し場」を紹介
1913 大正 2 52才 4月22日 第一高等学校長を辞任し、東京帝国大学法科大学専任教授
5月27日 一高基督教青年会の「卒業生送別会(晩餐会)」に招かれ、ウーラント作詩「渡し場」を独語と英語で暗誦
1915 大正 4 54才 養父で叔父の太田時敏永眠
1917 大正 6 56才 東洋協会植民専門学校(後に拓殖大学)学監、養子孝夫と養女琴子が結婚
1918 大正 7 57才 4月 東京女子大学初代学長に就任 軽井沢夏期大学開始、孫の誠が誕生
1919 大正 8 58才 3月 後藤新平と欧米視察に出発 国際連盟事務局次長に内定し ロンドンに留まり執務開始
東京帝国大学経済学部教授
1920 大正 9 59才 1月 正式に国際連盟事務局次長に就任し 7月 ジュネーブに移る、孫の武子が誕生
1921 大正10 60才 フィンランドとスウェーデンとの領土紛争であったオーランド諸島問題を「新渡戸裁定」により解決
1922 大正11 61才 国際連盟の知的協力委員会が発足し幹事を務める、拓殖大学学監を辞任し名誉教授
1923 大正12 62才 東京女子大学学長を辞任し、名誉学長
1926 大正15 65才 12月 国際連盟事務局次長辞任し 貴族院議員となる
1927 昭和 2 66才 東京帝国大学経済学部教授を辞任、ジュネーブから帰国、実業之日本社顧問
1928 昭和 3 67才 女子経済専門学校長、早稲田大学で科外講義開始
1929 昭和 4 68才 大阪毎日新聞・東京日日新聞編集顧問
8月 太平洋問題調査会理事長となり、10月 京都で第3回太平洋会議議長
1930 昭和 5 69才 「大阪英文毎日(編集余録)」に執筆開始
1931 昭和 6 70才 10月 上海での第4回太平洋会議に出席
1932 昭和 7 71才 4月 翌年3月までの1年間のアメリカ講演旅行に出発
医療利用組合の設立許可が「東京医療利用組合」としており、初代組合長となる
1933 昭和 8 72才 3月 帰国、8月 カナダのバンフで開催の第5回太平洋会議に出発 9月13日ヴィクトリア市ジュピリー病院に入院
10月16日永眠 11月18日 青山で葬儀 12月2日 多摩霊園に埋葬