西暦 | 和暦 | 年令 | 事項 |
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1862 | 文久 2 | 1才 | 旧暦8月8日(新暦9月1日) 盛岡市で南部藩士新渡戸十次郎の三男として誕生(幼名稲之助) |
1867 | 慶応 3 | 6才 | 父十次郎永眠 |
1871 | 明治 4 | 10才 | 叔父太田時敏の養子(太田姓)となり上京し、 築地外人英学校に入学 |
1872 | 明治 5 | 11才 | 盛岡藩の英学塾である共慣義塾に入学 |
1873 | 明治 6 | 12才 | 11月 神田一ツ橋に新設の東京外国語学校に入学 1874年12月 東京英語学校、1877年4月 東京大学予備門と改称 |
1876 | 明治 9 | 15才 | 明治天皇東北巡幸の際の下賜金で英語の聖書を買う |
1877 | 明治10 | 16才 | 東京大学予備門を中退し、9月 札幌農学校に第2期生(公費生)として入学、 10月 「イエスを信じる者の誓約」に署名 |
1878 | 明治11 | 17才 | 6月 ハリス師より洗礼を受ける(内村鑑三、宮部金吾とともに) |
1880 | 明治13 | 19才 | 母勢喜永眠(死に目に会えず) トーマス・カーライル著『サーター・レザータス』(衣服哲学)を ハリス師から東京で譲り受け「座右の書」となる |
1881 | 明治14 | 20才 | 7月 札幌農学校卒業し、開拓使御用掛を拝命 |
1882 | 明治15 | 21才 | 開拓使廃止され農商務省御用掛となり、併せて札幌農学校予科教授を兼務 |
1883 | 明治16 | 22才 | 東京の成立学舎で英語を教えながら 9月 東京大学文学部の専科生として入学し、英文学、理財、統計を学ぶ 面接試験で「われ太平洋の橋たらん」と語る |
1884 | 明治17 | 23才 | 8月 東京大学退学 9月 私費にて渡米 アラゲイニ大学入学 10月 ジョンズ・ホプキンス大学に転じ 経済学、歴史学等を3年間学ぶ |
1885 | 明治18 | 24才 | モリス邸でのクエーカーの集会に出席 翌年クエーカーとなる |
1887 | 明治20 | 26才 | 札幌農学校助教となり 農政学研究のため3年間のドイツ留学を命じられる 5月 アメリカを発ち、10月から独国ボン大学で農政学、農業経済学を学ぶ |
1888 | 明治21 | 27才 | 10月 ベルリン大学に転じ、農業史、統計学を学ぶ |
1889 | 明治22 | 28才 | 4月 長兄七郎死去に伴い、新渡戸姓に復し、同4月 ハレ大学に転じ、農業経済学、統計学を学ぶ |
1890 | 明治23 | 29才 | ハレ大学から哲学博士と文学修士の学位を受け、ジョンズ・ホプキンス大学から文学士号を受ける 7月 ドイツ留学を修了し 植民政策研究のため ドイツ東部 米国 カナダ各地を訪問 |
1891 | 明治24 | 30才 | 1月 メリー・エルキントン嬢とフィラデルフィアで結婚し帰国(メリーは萬里子と改名) 札幌農学校教授兼北海道庁技師 |
1892 | 明治25 | 31才 | 長男遠益(トーマス)誕生するも1週間後に逝去、萬里子夫人は産後の経過が悪く静養のため渡米(稲造同伴) |
1894 | 明治27 | 33才 | 萬里子夫人帰国、夫妻協力して勤労青少年や晩学者のために男女共学で無料の私設夜間教育施設「遠友夜学校」を創設 |
1897 | 明治30 | 36才 | 幾つもの職務遂行の激務により、体調不良に陥り、札幌農学校を休職のうえ鎌倉で静養 |
1898 | 明治31 | 37才 | 札幌農学校を辞職 沼津、伊香保で静養しながら『農業本論』を口述筆記にて出版、カリフォルニアに転地療養 |
1899 | 明治32 | 38才 | アメリカで 名著『Bushido--The Soul of Japan』(武士道--日本の魂)を執筆 翌1900年1月 米国フィラデルフィアのリーズ・アンド・ビドル社より刊行、農学博士となる |
1900 | 明治33 | 39才 | 後藤新平から三顧の礼で勧誘され、台湾総督府勤務を承諾、熱帯農業調査のため欧州視察、パリ万国博審査員 |
1901 | 明治34 | 40才 | 1月 帰国、2月 台湾総督府技師、5月 同殖産課長 「糖業改良意見書」提出 殖産局長心得として南洋出張 |
1902 | 明治35 | 41才 | 後藤新平台湾民政長官に随行して欧州視察に出発 臨時台湾糖務局長 |
1903 | 明治36 | 42才 | 欧米から帰国、10月 京都帝国大学法科大学教授を兼任 |
1904 | 明治37 | 43才 | 台湾総督府嘱託となり、京都帝国大学専任教授となる |
1906 | 明治39 | 45才 | 京都帝国大学から法学博士の学位を受ける 9月 第一高等学校校長に就任し、東京帝国大学農科大学教授を兼任 |
1909 | 明治42 | 48才 | 実業之日本社顧問として『実業之日本』誌に勤労青年向けの人生訓を連載 東京帝国大学法科大学植民政策講座担当教授となる(一高校長と兼任) |
1910 | 明治43 | 49才 | 内外の訪問客からニトベ・ハウスと呼ばれることになる新居を小石川区(現文京区)小日向に設け引越 |
1911 | 明治44 | 50才 | 8月 第1回日米交換教授として渡米し 1年間に166回の講演を実施、9月『修養』を實業之日本社から出版 |
1912 | 大正元 | 51才 | 9月 米国から帰国 実業之日本社顧問を辞任 10月 『世渡りの道』を實業之日本社から出版、書中でウーラント作詩「渡し場」を紹介 |
1913 | 大正 2 | 52才 | 4月22日 第一高等学校長を辞任し、東京帝国大学法科大学専任教授 5月27日 一高基督教青年会の「卒業生送別会(晩餐会)」に招かれ、ウーラント作詩「渡し場」を独語と英語で暗誦 |
1915 | 大正 4 | 54才 | 養父で叔父の太田時敏永眠 |
1917 | 大正 6 | 56才 | 東洋協会植民専門学校(後に拓殖大学)学監、養子孝夫と養女琴子が結婚 |
1918 | 大正 7 | 57才 | 4月 東京女子大学初代学長に就任 軽井沢夏期大学開始、孫の誠が誕生 |
1919 | 大正 8 | 58才 | 3月 後藤新平と欧米視察に出発 国際連盟事務局次長に内定し ロンドンに留まり執務開始 東京帝国大学経済学部教授 |
1920 | 大正 9 | 59才 | 1月 正式に国際連盟事務局次長に就任し 7月 ジュネーブに移る、孫の武子が誕生 |
1921 | 大正10 | 60才 | フィンランドとスウェーデンとの領土紛争であったオーランド諸島問題を「新渡戸裁定」により解決 |
1922 | 大正11 | 61才 | 国際連盟の知的協力委員会が発足し幹事を務める、拓殖大学学監を辞任し名誉教授 |
1923 | 大正12 | 62才 | 東京女子大学学長を辞任し、名誉学長 |
1926 | 大正15 | 65才 | 12月 国際連盟事務局次長辞任し 貴族院議員となる |
1927 | 昭和 2 | 66才 | 東京帝国大学経済学部教授を辞任、ジュネーブから帰国、実業之日本社顧問 |
1928 | 昭和 3 | 67才 | 女子経済専門学校長、早稲田大学で科外講義開始 |
1929 | 昭和 4 | 68才 | 大阪毎日新聞・東京日日新聞編集顧問 8月 太平洋問題調査会理事長となり、10月 京都で第3回太平洋会議議長 |
1930 | 昭和 5 | 69才 | 「大阪英文毎日(編集余録)」に執筆開始 |
1931 | 昭和 6 | 70才 | 10月 上海での第4回太平洋会議に出席 |
1932 | 昭和 7 | 71才 | 4月 翌年3月までの1年間のアメリカ講演旅行に出発 医療利用組合の設立許可が「東京医療利用組合」としており、初代組合長となる |
1933 | 昭和 8 | 72才 | 3月 帰国、8月 カナダのバンフで開催の第5回太平洋会議に出発 9月13日ヴィクトリア市ジュピリー病院に入院 10月16日永眠 11月18日 青山で葬儀 12月2日 多摩霊園に埋葬 |