友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
入村 玲子
新設:2012-11-16
更新:2022-10-31
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々

略  歴
(いりむら れいこ)  1924年(大正13年)~2020年(令和2年)9月10日 (96歳)

大正13年(1924)1月 母の生家の長岡で誕生  本名:初恵(はつえ)
東京府豊多摩郡野方町(現在の中野区の北部)で育つ
後に、父の転任で新潟県十日町に住むが、女学校2年生で熱海市に移る
翌年、横浜市郊外に転居、太平洋戦争で再び疎開で熱海に移る
敗戦後、新潟県千手町(現在の十日町市の一部)を経て、長岡市に在住

横浜時代より、短歌・俳句の雑誌投稿を始める
戦後、千手町役場の高野素十※系俳人の句会に入り、新潟療養所退所者がいたのが縁で「松の花俳句会」に入会、同俳句会主宰の及川仙石と出合う。NHK新潟放送ラジオ文芸俳句の選者であった仙石の勧めで投稿も開始。仙石の指導を得て句作に励み、会誌「松の花」発行に熱心な長谷川回天を知った。<注>当時、新潟療養所は結核療養所であった。

※明治26年(1893)~昭和51年(1976) 本名:与巳(よしみ) 専門:法医学、元新潟大学学長

昭和29年(1954) 入村玲子が長岡在住となるのと相前後して、長谷川回天は新潟療養所を退所し、長岡の自宅に戻った。玲子は回天とは師・仙石への尊崇の思いを同じくし、励まし合って日曜毎の吟行、勤務後の吟行、仙石の月毎の指導と常に行を共にした。5~6名での泊まりがけの吟行など、仙石の下で大いに学んだ。

新潟療養所内で会誌「松の花」編集発行が回天退所などのため難しくなったので、仙石は会誌発行所を昭和32年(1957)6月 長岡市に移転し、会誌編集発行を回天と玲子に任せた。後に、仙石が亡くなったので、玲子らは会誌「松の花」編集発行担当を500号をもって終えた。しかし、その後も編集等の手助けが断続的に続いた。「松の花俳句会」の会計担当を退いたのは平成20年(2008)であった。
語り継ぎの足跡-1
昭和31年(1956)10月27日に 「松の花俳句会誌『松の花』」第百号を記念して、国立新潟療養所(現 独立行政法人国立病院機構新潟病院)敷地に、及川仙石の弟子達が企画した「うつぎ句碑」※建立除幕式が行われた。
※仙石の句「花うつぎさかりの頃の去年のこと」が刻まれている。

仙石は序幕式の挨拶で、ウーラント作「渡し場」の詩を紹介し、さらに、建立した「句碑」を訪ね互いを思う「憩いの石」として欲しいとの話をした。

「憩いの石」=「うつぎ句碑」
「憩いの石」=「うつぎ句碑」
赤坂山公園(柏崎市)
撮影:2013-05-14
このとき、入村玲子は初めてウーラントの詩「渡し場」を聞き感銘を受け、会誌「松の花」に次のように記しているという。


昭和三十一年 句碑除幕式に先生(※1)は、それより少し前、朝日新聞紙上に載った猪間驥一氏(中央大学教授・統計学)の「まぶたの詩」に会うの記(※2)によるドイツの詩人 ルードウィッヒ・ウーランドの詩「渡し場にて」の話にことよせて、この後、句碑を訪ねた際は来られなかった友人を、亡き友達を思い憩いの石として欲しいと述べられた。
(※1) 「先生」は及川仙石を指す
(※2) 「まぶたの詩」に会うの記は、昭和31年(1956)9月27日付朝日新聞(東京版)「学芸」欄に掲載された、副題「”声欄”への投書が縁をとりもつ」を添えた猪間驥一の寄稿を指す

語り継ぎの足跡-2
昭和36年(1961)9月3日 仙石から俳句の指導を受けた玲子を含む「松の花俳句会」の会員が、安浄寺(長岡市来迎寺甲)に「歯塚」を建立、昭和31年(1956)建立の「憩いの石」と同様に折にふれ俳句の仲間(新潟療養所退所者および一般会員)が訪ね集う処として欲しいとの願いを込めてであった。仙石没後、昭和44年(1969)5月11日、遺言により仏式にて「歯塚」に分骨された。

「歯塚」
「歯塚」
安浄寺(長岡市来迎寺甲)
撮影:2013-05-14
昭和36年(1961)9月に安浄寺で催された「歯塚」の開眼式で、仙石は「雪見舞 心待ちして こもりをり」と刻まれた、この句の主旨は「心待ちしてこもりをり」にあり、上五を次のとおり読み替えて、折にふれ此処を訪ねて欲しいと話した。


春は…「つばくらめ」
夏は…「梅雨明け」
秋は…「秋冷」


人と人との結び付きを願う温かい心を常とした仙石に導かれた弟子たちは折にふれ集まり歯塚を掃除し亡き師を偲んで句会を開いている。

安浄寺は、真宗大谷派の古刹で境内には、歯塚の外に、高浜年尾の句碑、湯浅桃邑の句碑、稲畑汀子の句碑および安原葉の句碑があり、さらに虚子・年尾・立子の親子3人の俳句を鋳込んだ梵鐘がある。参道の脇の掲示板には必ず虚子の句が書きこまれているので「越後の俳諧寺」とも呼ばれているという。

安浄寺の住職・安原晃(俳号:葉)は、真宗大谷派宗務総長として京都東本願寺で宗祖親鸞聖人の第七百五十回御遠忌を平成23年(2011)に取り仕切った後、平成24年(2012)10月10日に宗務総長を辞した。
安原は大学時代から虚子に師事し俳句に傾倒していった。現在は「松の花俳句会」を主宰し、ホトトギス同人会長である。
語り継ぎの足跡-3
昭和51年(1976)4月19日付朝日新聞(東京版)「声」欄に載った丸山明好の「みつかった幻の歌の譜」と題した投書が、入村玲子の心にとまり、丸山明好に手紙を送ったことから交流が始まった。丸山明好は同年8月に寺泊に帰省した折に、柏崎にあるという及川仙石の「憩いの石」=「うつぎ句碑」を訪ねた。
また、丸山明好は、数年後の夏季休暇の帰省時に、仙石の「歯塚」をも訪ねている。

玲子は、会誌「松の花」昭和57年(1982)7月号に「渡舟」に関わる一文を次のとおり寄せている。


さちさんの案内で梢雪、束ね、ゆりえ、代香さんと小千谷、十日町の中間にある鷲巣の湯へ行く。老鶯がさかんに鳴き、若葉が目にしみる。窓に佇つと信濃川が右手からゆるやかにのび目の前に中州があり、流れは手前によって曲りつつくだってゆく。

対岸から今も渡舟が出ているというので河原までゆく。数十戸の家々を背にかまぼこ形の渡し守の小屋が見えた、大声をかけると漕ぎ出してきた。「魁夷の青」と紺青の川面を見つめているとこの上流を渡られた時の「乗る人について渡舟の秋の蝶 仙石」のお句が浮び、私も後年同じ川筋を越えたことがある、こんな事が矢次早やに思い出されて、今、先生とご一緒であったらと詮ない事にも又思いは走った。

三人ずつと云うことで二度に渡してもらう。両手をひろげ舟端につかまり身をまかせる。静かに川面をすべり出した。流れともみえず薫風に漣立っていた水際が中ほどを過ぎるとかなり力のある流れとなり船腹にぶつかる。舟は流れにしたがってゆるく弧を画きやがて岸に着いた。長さ三間ほどであろうか雨風にさらされた船体は木目を見せて白っぽく乾いていた。岸には五、六艘の同じような舟が舫っていた。その中、耕人がやや小さい舟をあやつって出て行ったがまもなく戻って来た。私たちの乗ったのは朝夕の通勤用のものとか。

一日おいての代香さんの便りの中「湯宿の前に展けた信濃川の伸びやかな流れ、その深い紺の流れをゆくりなくも渡船で向う岸へ下り立った事、一期一会の言葉を改めて心に深く思いました。小千谷に御縁のあられた先生はあの渡し場を御存知だったのでしょうか。先生の渡し場の御文章を改めて思い出しております。」とあった。「渡し賃だよ船頭さん/三人分をとっとくれ/わたしと一緒にふたありの/みたまも川を越えたのだ」で終るドイツの詩人ウーラントの「渡し場」の詩の話しである。思いは同じであった。私も亦床についてからしきりにこの詩を口吟んでいた。

昔日と変りない風景の中を今は亡い二人の友人の思い出と共に渡舟に乗ったと云う詩である。代香さんの便りを読みつつ「あの時むすんだたましいの/きづながなんで解けようぞ」を当夜の夢の中で口吟み魂の絆に惹れていたことをふと思い出した。更に先生がこのお話をされた句碑除幕式の日の事まで思われた。吟行途上小舟で川を渡ったということだけでなく、先生に連らなるものがその奥にあり、豊かなものを共有している事に心ゆすぶられた。又それをすぐ伝えてくれた代香さんの心情が心に沁みた。


朝日新聞に載った風変わりな投書ともいわれる一文に惹かれた俳人及川仙石が語ったウーラント原作「渡し場」の心の絆は、仙石の教えを受けた弟子達によって、柏崎の「憩いの石」および長岡の「歯塚」を媒介にして、師・仙石没後四十有余年にわたり大切なものとして維持されているという。ただ、残念なのは関係者の高齢化が進んでいるとのこと。

以上、丸山明好が2011年5月7日付で記した ”思いをつなぐ憩いの石~ウーラントの詩「渡し場」の心で~” などの資料に基づき、その概要を紹介させて頂きました。