友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
難波 準平
新設:2012-10-14
更新:2021-11-13
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々

略  歴
(なんば じゅんぺい)  生年不明 1960年8月5日没

大正2年(1913) 一高に入学し、その後中退

昭和25年(1950) 中央大学予科、ドイツ語講師

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語り継ぎの足跡-1
昭和25年(1950) 難波準平は中央大学予科卒業間近のドイツ語最終授業で、後に「渡し場」文語体共訳者の一人となった「小出健」ら学生に、「渡し場」の原詩と英訳を特別にプリントのうえ配付し、泣かんばかりに詠じながら教えた。

難波準平情報-1
小出健は、昭和31年(1956)9月13日付朝日新聞(東京版)「声」欄に載った猪間驥一の投書「老来五十年 まぶたの詩」に対し、自らの訳詩を添えて書面を送り、昭和31年(1956)10月7日付週刊朝日67ページに次のとおり紹介された。


(28歳、北多摩郡国分寺町内藤新田)

昭和25年、中央大学予科を間もなく修了するころ、ドイツ語の時間に難波準平講師が、 ザラ紙にタイプした原詩と英訳を学生たちに配った。
「もう来年から教えなくなる諸君に、記念としてこの詩を贈る。諸君も学部に進めばだんだんチリジリになるだろうが、友だちはいつまでも忘れないようでありたい」
というのだった。学生が、迫ってきていた試験の範囲をきくと、「この詩の一節も出しますから、よく覚えておいて下さい。」との返事だった。
難波先生は、センベツだからといったが、学生は、プリント代に1円ずつ集めて差しあげたのも、忘れられない。戦災で両親を失ったせいでもあるんでしょうか、忘れられません。

ウーラント原作、猪間驥一・小出健共訳文語体詩
難波準平情報-2
伊東昇太昭和大学医学部藤が丘病院精神神経科教授が1994年3月1日付の定年退職に当り、同年2月23日に「最終講義(お別れ講義)Abschiedsvortrag」が同藤が丘病院で行われた。その最終講義を同精神神経科の本田常雄が伊東昇太名で記録した「「つとめ医者」40年 ―ある精神科医の場合―」が(昭医会誌 第55巻 第1号[1-5頁,1995])に伊東昇太の卒業論文「九鬼周造序説」を含めて掲載され、4頁左側4~5行目に「難波準平」に触れた文章が次のとおりある。


林達夫の文章に出て来る難波準平先生はわれわれのドイツ語講師であったことがあり


伊東昇太は、「難波準平情報-1」に記した中央大学予科で難波準平からドイツ語を教わった小出健と同じ1928年生まれである

上掲「林達夫の文章」が何を指すのか、林達夫の著作集を調べたが、次の「難波準平情報-3」に示す「林達夫著作集別巻1書簡」(平凡社刊)に収載された書簡2通の外に、何も発見できていない。しかも「林達夫著作集別巻1書簡」の刊行は1987年であり、伊東昇太が卒論で記した林達夫の文章に該当しない。

伊東昇太は、旧制から新制に変わって間もないときの昭和大学医学部卒であり、前身の予科に当たるところに在学中に難波準平からドイツ語を教わったものと思われる。

難波準平情報-3
「林達夫著作集別巻1書簡」(平凡社刊)に、谷川徹三宛書簡のうち[難波準平]に触れた書簡が2通あり、該当箇所を抜粋すると次のとおりです。


[23]1922-7-3付「谷川徹三宛封書」
 難波準平君に神田の丸善で逢ひました。謡の稽古に通ってゐるとのことで驚きました。

[28]1923-4-19付「谷川徹三宛封書」
 きのふ阿藤伯海が来て、難波準平氏は華燭の典をあげたさうです。


難波準平と谷川徹三は1913年に一高に入学、林達夫は1916年に一高入学と3年の差があり、林達夫が難波準平より3年後輩の筈なのに「難波準平君」と記していることに若干違和感がある。この二人の関係がどのようなものであったのか解明が待たれる。
難波準平は、普通なら3年経てば一高を卒業しているのに、一高卒業生名簿には「中退」となっている(北原文雄調べ)。

難波準平情報-4

片山敏彦著『詩心と風光』を著者・片山敏彦が難波準平に贈った古本が本郷のアルカディア書房が「難波準平宛ペン署名入」として販売していたので、2021年6月3日にメールで照会したら、「古書市場で仕入れた本であり、難波準平の子孫のことはわからない」との回答を貰いました。片山敏彦は1898年生まれで東京帝大独文科卒ですが、北原文雄調べでは一高の卒業ではないとの由。