新設:2012-10-17
更新:2022-10-31
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々
略 歴
(よしだ げんぞう) ~1980年(昭和55年)
明治43年(1910)9月 第一高等学校に入学、大正2年(1913)7月 卒業
大正2年(1913)9月 東京帝国大学工学部入学、大正5年(1916)7月 卒業
昭和55年(1980)3月 永眠(88才)
語り継ぎの足跡-1
昭和54年(1979)4月3日付 日本経済新聞「文化」欄に、吉田源三が寄稿した「あと六年、二度目の大彗星 ◇亡き二人の親友の分まで見るゾ◇」 が掲載された。その一文を転載させていただく。
□ ■ □ 新渡戸先生から教え
私の七十年来の友であった山岡望は、自分の書斎の本箱のふちに「一九八五」という数字をはっきりと記していたそうである。もう一人の友、上田穣も似たようなことであったろう。私ももちろんこの数字を深く、強く心に刻んで六十九年、忘れたことがことがない。「一九八五」とは、あのハレー大彗星(すいせい)が地球に大接近する年のことである。私たち三人はその年を長い間待ってきた。あと六年である。
話は明治にさかのぼる。明治四十三年、すなわち一九一〇年に、山岡君、上田君、私の三人は、旧制第一高等学校の理科と工科へそれぞれ入学した。入学後の数多い喜びの中で、新渡戸稲造先生から親しく教えを受けることができたことは何にもまさるしあわせであった。"Be Prepared"(常に準備せよ)という心構えの大切さをくり返し説いて下さったことを私は忘れない。第二の幸福は、私が山岡、上田というかけがえのない二人の友を得たことであった。いずれも真剣なクリスチャンであったことも手伝って、入学後急速に親しくなった。そして久遠の友情を誓い合った三人は、その年の五月、ハレー彗星の地球への大接近というまことに願ってもない宇宙の奇象に遭遇したのであった。
□ ■ □ 荘厳な天体のショー
明治四十三年五月十九日、降り続いた梅雨がカラリとあがった東の空に、鮮やかな光芒(こうぼう)をひきながら、天のほとんど三分の一を占めるかという長さ、大きさで、うつくしくその大ほうき星は輝いてみえた。私も山岡、上田の両君も、本郷向ヶ岡のキャンパスの一角で、肩を寄せあって天を仰ぎながら言葉がなかった。それは荘厳な天体のショーであった。堂々たる偉観美観、まさにこの世のものとは思われなかった。毎朝八時から九時ごろ、三人は無言で東の空を仰いだ。そんな日が十日ほど続いてハレー彗星はわれらの前から姿を消した。
ハレー彗星とは、太陽系中の海王星族に属する周期彗星の名である。イギリスの天文学者、E.ハレーがくわしく研究した。彼は、一三三七年から一六九八年までの過去の彗星の観察記録を整理し、友人のニュートンの力学法則を使いながら軌道のありさまを分析した。そして一五三一年のアピアヌスが観測した彗星と一六〇七年のケプラーの観測した彗星、そして一六八二年にハレー自信がみた彗星は軌道要素が一致していることを発見したのである。この彗星は周期約七十五年で回帰し、次回の出現が一七五八年ごろであると予言した。一七五八年のクリスマスの夜、ハレーの予言通り大彗星は地球に姿を現し、以後彼の名はこの彗星とともに生き続けることとなったのである。
ハレー大彗星はまた、明治も末の当時の世間をさまざまに騒がせた。彗星の尾の中を地球が通過するということから、人畜に害があるとのうわさがたった。歌人、伊藤左千夫は、
稲抜きて 夜ふけの風呂に をとこをみな 怪しみ騒ぐ 森の上の星
と当時の情景をうたっている。あるいは、明治四十三年四月七日の読売新聞は「世界中の大評判になっているハレー大彗星について米国の天文学者カミール・フランマリオン氏は、このごろ意見を発表していわく、”五月十九日にハレー彗星と地球が衝突するといいふらしたのは自分だとフランスはじめ諸外国の新聞記者からヒドク攻撃されたが、私はソンナ事をいった覚えはない。自分が断定したものではない事を証明するにはたくさんの証拠があるが弁解したところで仕方がない。”」といった趣旨の記事をのせ、その後に「万一(彗星の)尾が地球の軌道に触れたところで肉眼には認められない位透明なもので地球の空気は彗星の尾を防禦することができる」などと書いている。
□ ■ □ 一九八五は心の支え
そんな世情をしり目にしながら、私たちはその時、「なんとしても、もう一度、この彗星の飛来するのをながめようではないか」と誓いあった。ハレー大彗星は、周期約七十五年で太陽系の軌道上を公転するのだから、次の機会は一九八五年である。それには少なくとも九十三年余りの長命を保たねばならない。しかしお互い健康に気をつけてそれまでなんとしても生き抜き、永遠に変わらぬ友情を確認し合おうではないか、というのであった。
一高を卒業後の三人は思い思いの道に進んだ。上田君は天文学を選んだ。大彗星の飛来にいざなわれたかのようであった。後に京都大学教授となり、中南米の国から国賓として招かれるなど多くの貢献、実績をこの学問のためになした。山岡君は、一高から東大純正化学科を経て岡山の旧制第六高等学校の教授として一生を六高にささげ、七千人近い後進を育てた。一生独身で通した山岡君は、いわば六高の名物教授であった。教え子には、桜田武、永野重雄、太田薫等をはじめ各界で活躍する多くの知名人があったという。私は東大工学部で電気を学び、エンジニアとして民間の企業に入った。そんな三人が、ひと時とも忘れないのがハレー大彗星のことであり、「一九八五年」のことであった。近年は、年賀状の片すみに必ず「あと十年」とか「九年をがんばろう」などと記して互いに年を忘れ激励し合ってきたのである。「一九八五」は私たちの心の支えなのであった。
□ ■ □ われらはいまも一緒だ
ところが、好事魔多しといわんか、遺憾極まりないことに上田、山岡の両君が相次いでこの世を去ってしまった。上田君は昭和五十一年十一月十三日、山岡君は五十三年八月二十二日、ともに昇天した。三人が肩を抱いて彗星をながめる希望は断たれてしまった。だが私は一人でがんばって三人の念願の達成を心に決めた。そのことを山岡君の告別式の時に次のように述べた。
「共に肩を組んでこの世を終わりたいという希望を、深く心に念じて生きてきた三人だった。山岡君は偉大な教育者、偉大なクリスチャンとしての道をひたすら歩んだ。彼について私たちはそれ以上何も言う必要がない。ところで、あの偉大な光を見て以来、ハレー大彗星との再会は三人の悲願だった。その貫徹のために、一人残された私は健康に気を配り、寿命を保ち、必ずやこの目で二人の分も彗星を見たいと思う」
この弔辞は後で、「君にしては上手な話ぶりだった」と人から言葉をもらった。私は山岡君を尊敬していたから、自然に口をついて出たものをつづっただけなのである。彼が言わせたのかもしれないとも思う。それにしても私にはさびしく無念なことではある。
しかし、私は、あのドイツの詩人、ウーラントの「渡し場にて」という詩を胸にしまいつつこれからの六年をがんばろうと思う。この詩は、あの新渡戸先生が私たちに教えて下さったものだ。大要は次の如くである。
幾年も前に三人でこの河を渡った
夕焼も古城も川面のせせらぎもすべて当時のまま
だが二人の友はいまは亡い
そうだ
その交りは心と心のふれ合いだった
その意味で、われらはいまも一緒だ
船頭さん、三人分の渡し賃置きますよ!
いまは亡き友の分もどうぞ
山岡君よ、上田君よ、天の一すみから祈っていてほしい。ハレー大彗星がこの私の目の中に再び美しく映ずることを。
語り継ぎの足跡-2
昭和54年(1979)7月6日付朝日新聞(東京版)夕刊は、「こころ」欄で「君らと3人で見たかった…」 「ハレー彗星を待って70年」 「同級の約束あと7年」「魂の仲間と…楽しみで」 との見出しで、吉田源三らに取材した記事を掲載した。その記事を転載させていただく。
一九八六年にハレー彗星(すいせい)が再び現れるまで生きていよう、そして、三人で肩を並べて見上げよう--そう約束をした三人がいた。この前に現れた明治四十三年(一九一〇)にハレー彗星を見た人たちだった。だが、二人は最近相次いで亡き人となり、残った一人、八十八歳の老人は「あと七年がんばる」とはりきる。--あすは七夕。星の話題をお届けしよう。
「三人でハレー彗星を見よう」と約束をかわしていたのは、旧制一高の同級生だった元京大名誉教授(天文学)の上田穣氏、元旧制六高教授(化学)の山岡望氏と、元住友電工顧問の吉田源三さん。そのうちたった一人、今も健在な吉田さんを、横浜市戸塚区岡津町の自宅に訪ねた。
明治四十三年のハレー彗星はどんなだったのだろうか。
「ぼくたち三人が旧一高に入学した年の五月でした。ぼくは東京・日本橋に家があって、「一週間か十日くらい、夜明けの東の空に輝くのが見え、世にもありがたい光だと感銘しました」と吉田さんはポツリポツリと語る。
東京天文台の調査報告書や当時の新聞によると、東京天文台が旧満州の大連に観測陣をはり、また日本国内でも、四月から五月十九日(”大接近”の日)にかけては明け方に、それ以後六月にかけては夕方に”ほうき星”が見られたようだ。とくにこの時のハレー彗星は、尾の部分が地球をすっぽり包むから天変地異が起こるというデマが流れて、世界中を騒がせている。
さて、三人の約束はどうだったのであろう。--「一高時代にわれわれ親友三人でハレー彗星のことを語り合ったものです」と話す吉田さんは、同窓会報「向陵駒場」の昭和四十六年四月号に「……同じ彗星が一九八五年(注)に再現するので、同窓のU君(上田氏)とY君(山岡氏)とが、その年までは絶対に死なぬと互いに堅く誓ったとの知らせで、この天文学者と化学学者との仲間入りを私もさせてもらった。私もそれまでは絶対に死ねない」と書いている。
山岡氏は同会報の四十七年七月号にこう記している。「入学したのは明治四十三年の九月、その春にはハレー彗星が現れ、……一九八五年にまたやって来ます。それをいっしょに見ようと、同窓の三人が最初に申し合わせしたのは一九六二年(昭和三十七年)のことでしたが、それ以来待望の年が次第に近づいてきました」
吉田さんは「とくにこの十年くらい前からは、年賀状ごとに、あと何年、あと何年、と書き合っていたものですが……」と、残念そうに語る。
<注>
『理科年表』によると、ハレー彗星の周期は七十六年で、次の地球接近は一九八六年二月となっている。
約束仲間の一人、上田氏は、京大の花山天文台長、生駒山太陽観測所長などをつとめ、中南米での天体協力観測にも尽力、また昭和二十五年には、天体に関心を持つ死刑囚との文通、対面で新聞の話題になった人である。四十九年二月発行の東京天文台報(第十六巻第四冊)でハレー彗星の思い出を次のように語っている。
「私は当時(明治四十三年)徳島中学を数え年十九歳で卒業し、東京の一高(旧制)を受験すべく上京して、本郷近くの下宿屋に泊って受験勉強していました。そしてたまたまハレー彗星を望見したわけです。明け方の彗星と夕方の彗星とを見た記憶がある。夕方見た彗星の方は尾が長大ですばらしいながめであった。……将来断然、天文学をやろうと決心しました。……次の出現までは元気でいたいものです」。その天文学への志を果たし、昭和五十一年十一月、八十四歳で死去した。
また山岡氏は、旧制六高に長年つとめ、終戦直後の青空化学実験室などで”名物教授”の名をはせ、教え子に深い感化を与えた。去年八月に他界し、吉田さんは、山岡氏の葬儀で「私が三人の約束を果たします」と弔辞を述べた。
吉田さんにとっては、山岡氏が愛誦(あいしょう)していた一編の詩が忘れられない。亡き二人との約束の話と不思議にぴったり重なり合うからだという。それは、ドイツの詩人ルードビッヒ・ウーランド(一七八七~一八六二)の「渡し場にて」という詩。
もう幾年になるか、この川を前にも一度渡ったことがある。
夕焼け空のあの城の晩照は当時のまま。
井ぜきのせせらぎの音も当時のまま。
当時は一緒の舟に、友だちが二人乗っていた。
(中略)
思えば思うほどなつかしい大切な二人の友達。
なぜ二人は早く死んでしまったのだろう。
そうだ、われわれの交わりは、魂と魂のふれ合いではなかったか、
さよう、そのころから魂の上で交わっていたわれわれ、
われわれは今も魂の上で一緒である。
船頭さんよ、これ渡し賃、
三人分だが、これだけどうぞ!
仲間の二人は、魂の人間。
(山岡望著「六稜史筆」から)
山岡氏が書き残したものによると、この詩は大正二年、一高卒業のときキリスト教青年会の送別会の席上、新渡戸稲造前校長が原詩で紹介してくれたという。吉田さんは、一九八六年のハレー彗星再来を夢見て、語る。--
「それまでどうしても生きたい。ハレー彗星を三人分、見るんです」
星たちよ、心あらば、願いをかなえてあげてほしい。