新設:2014-08-20
更新:2022-10-31
「猪間驥一評伝」
~日本人口問題研究の知られざるパイオニア~
和田みき子 著
2013年12月9日 原人舎 刊
ISBN978-4-925169-76-9
定価 (本体 1900円+税)
「猪間驥一評伝」表紙
ルードウィッヒ・ウーラント原作「渡し場」 の
訳詩者としても知られる猪間驥一(いのま きいち) の
経済学者・統計学者としての業績と生涯を知るのに
他に類のない貴重な書籍である
巻末の参考文献リストも豊富であり、これから
猪間驥一の足跡を辿る人には、良き「道しるべ」となる
著者の承諾を得て
[目次] [はじめに] [おわりに] を転載した
「猪間驥一評伝」裏表紙
『猪間驥一評伝』
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目 次
第一章 生い立ちから石橋湛山との出会いまで
第一節 幼年時代・少年時代・第一高等学校時代
一 幼年時代と家族
二 銀座っ子としての少年時代
三 第一高等学校時代
第二節 糸井靖之より統計学を学ぶ
一 東京帝国大学経済学部と六人の師
① 糸井靖之
② 高野岩三郎
③ 山崎覚次郎
④ 河合栄治郎
⑤ 大内兵衛
⑥ 土方成美
二 東京帝国大学卒業から追放まで
第三節 石橋湛山に統計学を講義する
一 石橋湛山との出会い
二 『経済図表の見方描き方使い方』の出版
三 各界からの反響と物価指数研究のその後
① 統計学会からの反響
② 数学教育界からの反響
③ 物価指数研究のその後
四 『政治経済思想の変遷』に見るある変化
第二章 東京市政調査会の研究員となる
第一節 東京市長、後藤新平と東京市政調査会
第二節 人口問題、失業問題はいかに発生しているか
一 失業統計調査が信頼に足りない理由
① 「大正十四年失業統計調査の結果に就いて」
② 「大阪市の知識階級失業者と失業労働者」
二 すべての政治的・経済的課題は人口問題に帰結する
① 『最近帝国人口の実状』
三 都市周辺への人口集中現象に失業の実態を探る
① 「最近我国に於ける人口の都市集中傾向」
(イ)市部人口と郡部人口
(ロ)市の大中小による人口増加
(ハ)失業調査地域に対する人口集中
(ニ)失業調査「付近地域」に対する人口集中
(ホ)東京市郊外に対する人口集中
第三節 都市における妊産婦保護事業と乳児死亡率
一 内務省保健衛生調査会の建議
二 妊産婦保護事業に関するレポート
① 「神戸市の巡回産婆事業」
② 「名古屋静岡の巡回産婆施設」
③ 「各地に於ける日本赤十字社の妊産婦保護事業」
④ 「我国に於ける妊産婦保護施設」
三 乳児死亡統計に関するレポート
① 「最近諸外国並に本邦都市の乳児死亡率」
② 「我国諸都市の乳児死亡統計に就て(上)」
③ 「我国諸都市の乳児死亡統計に就て(下)」
④ 「六大都市及び全国早期乳児死亡の推移」
⑤ 「乳幼児及母性保護事業の意義と英国に於ける其の発達」
⑥ 「東京市の牛乳問題」
四 その後の妊産婦保護事業
① 「東京市産児制限後聞」
② 「妊産婦保護事業と住宅保護事業―諸都市に於ける其の廃止と起業」
第三章 昭和恐慌期における経済分析と提言
第一節 金解禁政策をめぐる論争と二つの立場
第二節 職業紹介統計に深刻な知識階級の就職難を見る
① 「東京地方就職難深刻化の一断面」
② 「東京市に於ける知識階級の就職難」
第三節 ケインズ主義的積極政策提言
① 「失業問題は何処へ行く?」
第四節 浜口内閣のデフレ政策批判
① 「最近の我が経済界における若干の観察」(『日本経済図表』)
日銀兌換券及び正貨準備/外国為替相場/外国貿易/銀行預金及び貸出
/金利/物価/賃銀/労働者雇用状態/株式価格/手形交換高
/資本の調達/事業界を覆う生産制限
第四章 上田貞次郎の背広ゼミナールに参加する
第一節 猪間驥一の一大決心
コラム―石橋湛山と上田貞次郎
第二節 日本の将来人口予測「要職人口一千万」
コラム―我国に外戦の危険無し
第三節 都市が吸収する農村の生産年令人口
コラム―農村工業化計画
第四節 労働者の家計調査に見る生活改善の実態
① 「最近物価低落期に於ける大阪市労働者家計支出の変化」
② 「家計調査に現れた各国労働者の生活状態(上)」
「家計調査に現れた各国労働者の生活状態(下)」
③ 「最近六年間東京市勤労階級家計の変化」
「最近六年間東京市勤労階級家計の変化」「続」
④ 「十市家計調査の新結果」
第五節 多産多死から少産少死へ
第六節 ヨセミテ太平洋会議と関税協定の成立
第七節 「人口の都市移住計画」(仮称)発表直前の危機
① 「都市の人口」
② 「都市の人口(続)」
③ 「都市の人口(続二)」
第八節 国立人口問題研究所の設立に向けて
第九節 日中戦争の進行と計画の挫折
第五章 『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編纂
第一節 満州・新京への赴任から引揚げまで
一 中国大陸に渡る
二 中国での幽囚生活
三 日本への帰国
第二節 『日本人の海外活動に関する歴史的調査』成立の過程
一 『日本人の海外活動に関する歴史的調査』とは何か
二 『人生の渡し場』の中の石橋湛山
三 『石橋湛山日記』の中の猪間驥一
第三節 石橋湛山の小日本主義と猪間驥一の描いた日本近代史
一 明治時代(デモクラシー発達期)
二 第一次危機(武力的大陸政策期)
三 幣原外交期
四 第二次危機(昭和恐慌期)
五 髙橋財政期
六 第三次危機(ファッシズム)
第四節 先行研究における「大蔵大臣、石橋湛山」の不在
第六章 石橋湛山のブレーンとして教育者として
第一節 一九五二年の言論活動
一 「一体性について」
二 「学生へのアッピール」「一九五二年五月二五日『中央公論』」
三 「八月十五日―無条件降伏」(一九五二年八月一五日『時事新報』)
四 「再軍備のための憲法改正の一提案」
(一九五二年八月三〇日『東洋経済新報)』
五 評論活動の中断
第二節 猪間驥一の晩年と二つの歌
一 まぶたの詩『渡し場』の由来
二 日ソ共同宣言とジャーナリズム
三 共産主義批判書の翻訳
四 教室を借りて講義を続ける
五 告別講義と『惜別の歌』
六 駒澤大学教授に就任
七 土方成美の喜寿記念論文集
八 猪間驥一の死
二
すべての政治的・経済的課題は人口問題に帰結する
⑤ 「乳幼児及母性保護事業の意義と英国に於ける其の発達」
② 「妊産婦保護事業と住宅保護事業―諸都市に於ける其の廃止と起業」
第二節
職業紹介統計に深刻な知識階級の就職難を見る
① 「最近の我が経済界における若干の観察」(『日本経済図表』)
日銀兌換券及び正貨準備/外国為替相場/外国貿易/銀行預金及び貸出/金利/物価/賃銀/労働者雇用状態/株式価格/手形交換高/資本の調達/事業界を覆う生産制限
第一節
猪間驥一の一大決心 コラム―石橋湛山と上田貞次郎
第二節
日本の将来人口予測「要職人口一千万」 コラム―我国に外戦の危険無し
第三節
都市が吸収する農村の生産年令人口 コラム―農村工業化計画
① 「最近物価低落期に於ける大阪市労働者家計支出の変化」
② 「家計調査に現れた各国労働者の生活状態(上)」
「家計調査に現れた各国労働者の生活状態(下)」
③ 「最近六年間東京市勤労階級家計の変化」
「最近六年間東京市勤労階級家計の変化」「続」
第七節
「人口の都市移住計画」(仮称)発表直前の危機
第五章
『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編纂
第二節
『日本人の海外活動に関する歴史的調査』成立の過程
一
『日本人の海外活動に関する歴史的調査』とは何か
第三節
石橋湛山の小日本主義と猪間驥一の描いた日本近代史
第四節
先行研究における「大蔵大臣、石橋湛山」の不在
二
「学生へのアッピール」「一九五二年五月二五日『中央公論』」
三
「八月十五日―無条件降伏」(一九五二年八月一五日『時事新報』)
四
「再軍備のための憲法改正の一提案」(一九五二年八月三〇日『東洋経済新報)』
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はじめに
「神戸市で始まった巡回産婆を知っていますか?」
一〇年前、ある教授が、助産師である筆者にいわれたそのひと言を、今でも鮮明に思い出す。
それは、都市に雇用された産婆が家庭を訪問して出産の介助を行うという制度であった。この「巡回産婆」を始め、一九二〇年代、日本の各都市において、様々な形の妊産婦保護事業がくりひろげられていた。その衝撃は、筆者の戦前の社会を見る眼を、大きく変化させるものであった。
ところが、驚きはこれにとどまらなかった。二つ目の驚きは、そうした事業を補完する「東京市政調査会」という調査研究機関の存在だった。これは、当時の東京市長、後藤新平が、ニューヨーク市政調査会をモデルに、安田財閥の会長、安田善次郎の寄付を受けて設立したもので、今日のシンクタンクに相当するものであった。
そもそも妊産婦保護事業自体が後藤新平の内務省時代からの懸案事項であり、この事業のきっかけとなった内務省保健衛生調査会の「児童及妊産婦健康の増進に関する件」の建議も、小児科医を中心とする人々の後藤の意向を受けての提案だったと推察される。社会事業と調査研究事業をセットにして実施するという、彼の都市計画のヴィジョンが、ここに実現を見ることになったのである。
そして、三つ目の驚きが、「猪間驥一」という人物の存在、その鋭い洞察力であった。
東京市政調査会の研究員であった猪間驥一は、この妊産婦保護事業の全容を紹介するとともに、一九一〇年代の後半より、たいへんな高率を示していた乳児死亡率を下げるのにこの事業がいかに有意義であるか、また産婆の役割がいかに重要であるかを、統計データを駆使して鮮やかに分析してみせた。また、その効果を高めるために、様々な政策提言を行ったのである。
当時の日本は、深刻な食糧不足に直面して、多産か少産かをめぐって人口問題が取りざたされていた。そんなとき猪間は、重要なのは産児(出生数)をコントロールすることではなく、乳児死亡率を下げることであり、そのための活動であると明言したのである。
ここに来て、筆者が漠然と思い描いていた一九二〇年代のイメージは完全に覆り、変容をとげてしまう。
猪間驥一が、統計学が専門の経済学者であることを知って、驚きの連鎖はさらに広がった。
猪間は、新自由主義者として知られた石橋湛山とも、上田貞次郎とも、ゆかりのある経済学者であった。それぞれの人物と深く関わりあって、統計学の普及活動においても人口問題研究の分野においても、様々な功績があったのである。
さらに歴史学の分野においても、隠されていた貢献があった。彼は終戦直後、大蔵省の委託により、膨大な歴史書の編纂に関わったが、長らく埋もれていたその書は、日の目を見た今日もなお、充分な評価が与えられているとはいえない。
猪間驥一という人物は、いったいどこから来て、何を行っていったのか。なぜ人々は彼の姿を見失ってしまったのか。いざ調べ始めてみると、彼の足跡のそこここに私たちが見落としていた重要な歴史の断片が立ち現れてくるのである。換言すれば、彼のいた空間、彼の赴いた場所のそれぞれが、日本の思想史上、経済学史上、特異な地点であったということでもある。
そして、「戦前は政治的にリベラルだった経済学者の、戦後における保守主義者への転向の物語」として描かれかねない猪間の生涯が、実はゆるぎない一つの信念に貫かれていたことにも気づかされるのである。
猪間驥一の足取りをできるだけ忠実にたどり、彼の業績を少しでも明らかにすることが、この評伝を書くという試みの中で筆者が意図したことである。
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おわりに
知られざる自由主義経済学者、猪間驥一の一生とその業績をたどった。
彼の生涯を特徴づけるものとしては、まず多くの人々との出会いを経験していることがあげられるだろう。中でも、三人の師、糸井靖之、石橋湛山、上田貞次郎は、その生き方に決定的な影響を及ぼしている。またその出会いの背景ともなっている、日本の経済学史上、重要な「場」とのつながりが、彼の存在をユニークなものにしている点も見逃せない。
猪間の業績は、戦前の広範な人口問題研究と終戦直後の『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の編纂とに大別できる。
猪間は、一九一九年九月、東京帝国大学に新設された経済学部に第一期生として入学する。ここで彼は、糸井靖之の薫陶を受け、統計学に開眼する。助手・講師時代、猪間は、発刊されて間もない『経済学論集』に三編の論文を残す。これらは、物価・物価指数に関する研究の日本で最も早い取り組みの一つであった。
東京帝国大学を追われた後、石橋湛山の要請を受け、東洋経済新報社より統計学を一般に普及させるための入門書を出版する。時機を得て、これがロングセラーの書となる。同時に発売した、猪間自らの作製による対数方眼紙もこの啓蒙活動に大きな役割を果たす。
後藤新平によって、ニューヨーク市政調査会をモデルに設立された東京市政調査会では、後藤の社会事業と調査研究事業が車の両輪の如く補完しあうという構想の実現を、研究員の中心になって担う。
ここで彼は、一九二五年に実施された日本初の失業統計調査の不備を補うべく、独自の人口問題・失業問題研究に着手する。そこで彼が見出したものは、都市に向かう人口が、いったん周辺地域にとどまるという現象であった。
これとは別に、猪間は、当時、都市において高い率を示していた乳児死亡率を下げるために繰り広げられていた妊産婦保護事業、とくに巡回産婆事業の有効性を、統計学的手法を用いて検証しようとした。また、そのための乳児死亡統計の整備を訴えた。日本では、一九二〇年に国勢調査が開始されたが、人口統計学の概念を日本に根づかせるのには、猪間らの根気強い努力が必要だったのである。
昭和恐慌期には、石橋湛山・高橋亀吉らの新平価による金解禁を訴えるキャンペーンに呼応して、浜口内閣のデフレ政策を批判し、ケインズ主義的「積極政策」を提言する。
一九三一年一二月、湛山・亀吉らの提言が実を結び、大蔵大臣、高橋是清によって金本位制が停止されると、今度は、活動の場を、上田貞次郎が主宰する人口問題研究グループに広げて、失業問題に特化した研究を行う。そして、出生の増加は都市ではなく農村で起っていること、そして、その農村で生まれ育った子供が、生産年齢に達して都市に流入するという構造を明らかにする。
これを受けて、上田は、人口の都市集中は日本の経済の工業化に伴う現象であり、問題の解決は工業化の過程を速やかにすることであって、青年の離村を食い止めることではない、という画期的な結論を導き出す。
猪間はこうした研究成果をふまえ、東京市政調査会の同僚で都市計画の専門家、弓削七郎の協力を得て、「人口の都市移住計画」(仮称)の具体的な立案作業に入る。
一九三七年、猪間は『都市問題』誌上に、「都市の人口」の連載を開始、この最後の回に計画の発表が予定されていた。ところが、まさにそのとき、日中戦争が勃発するのである。それから二年間、発表の機会をうかがっていたが、戦局は悪化する一方で、一九三九年の夏、猪間はついにこれを断念する。
猪間はその後、東亜研究所を経て、満州・新京に、商工会議所の理事として赴任し、終戦後、一年余りの幽囚生活を経験する。このとき、日僑善後連絡処の財産股長として日本人の帰国に尽力したことが、帰国後、大蔵省の在外財産調査会の仕事を手がける契機となる。
『日本人の海外活動に関する歴史的調査』が、石橋湛山の意向を受けたプロジェクトであったことは確認した。彼はここで、日本人の海外活動が、いわれているような帝国主義的発展の過程ではなく、湛山が主張した小日本主義と大日本主義とのせめぎあいの中に経過してきたことを立証しようとした。
ところがこの報告書も、湛山が公職追放になって、限定出版はされたものの、公刊されずに終わる。それとともに、猪間の戦前の調査研究活動も歴史の中に埋もれてしまう。
ここで重要なことは、貿易立国・産業立国への道を、もっとも果敢に、そして現実に即した形で追求してきた湛山、猪間らを、日本の歴史学者が、今日に至るまで、「植民地主義の立場に立っている」とみなしてきたことであろう。
猪間驥一という人の姿を見失わせたものは何だったのか。
有沢広巳ら大内兵衛グループによる猪間の東大追放を、最初の要因として上げることは可能であろう。彼らは、これを学内における派閥抗争の一環として行ったのである。
ここでは、多くを述べないが、これは、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』とすり替わるように編纂が開始された大内兵衛の『昭和財政史』にもつながる一連の企みであり、ここで大内は、「高橋財政」(あるいは「井上財政」)に日本の戦争責任を転嫁することによって、この間のリベラリストたちの活動を無意味なものとして歴史から抹消したのである。戦後の民主主義教育、あるいは段階論・「十五年戦争」史観を標榜するアカデミズム、ジャーナリズムが、こぞってこれを支えた。
したがって裏返せば、猪間驥一の二つの業績に対する再評価は、まさに「十五年戦争」史観に対する「高橋財政」への評価に極まるのであり、猪間の姿を見えにくくしているヴェールを取り去れば、一九三〇年代の歴史的空白は、ジグソーパズルのように一片一片埋められていくということでもある。
中村隆英の『昭和史Ⅰ』に次のような一節がある。
経済的にみれば、一九三〇年代なかばは、不況から脱出が進むとともに、急速に重化学工業が発展した時代であった。しかし、それは軍事化という単純な理由のみで進展したものとはいえない。ようやく産業構造が高度化し、設備投資や建設投資が増加して、鉄鋼、セメント、機械類をはじめ投資財が本格的に受容される時代が到来していたのである。戦争さえ起こらなかったらば、戦後にみられた設備投資を起爆剤とする経済成長が可能だったのかもしれないのである。
「高橋財政」の秘めていた可能性、つまり「戦争さえ起こらなかったらば、戦後にみられた設備投資を起爆剤とする経済成長が可能だったのかもしれない」という中村のことばが、猪間の「人口の都市移住計画」(仮称)の存在によっていよいよ現実味をおびてくることは間違いない。
同時に、戦争という誤った選択によって日本および日本人が失ったものを改めて目の前にして、慄然とさせられざるをえないのである。
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