友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
三浦 安子
新設:2021-11-03
更新:2021-11-13
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々

略  歴
(みうら やすこ) 1938年(昭和13年)~

昭和36年(1961) 東京大学教養学部教養学科ドイツ分科卒業
昭和40年(1965)~昭和42年(1967) ドイツのハンブルグ大学留学
昭和47年(1972) 東京大学大学院比較文学比較文化博士課程満期退学
昭和47年(1972) 東洋大学文学部専任講師(ドイツ語・比較文学担当)
昭和49年(1974) 同助教授
昭和61年(1986) 同教授
平成12年(2000) 同経済学部教授
平成21年(2009) 定年退任、名誉教授

専門 : ドイツ文学・比較文学
著書 : 『エルンスト・シュタードラーの抒情詩』 同学社 2005
     『魂の平安を求めて』 日本キリスト教団出版局 2009
     『私の今市 自然の中で』 日本キリスト教団出版局 2009
     『聖句を道しるべとして』 日本キリスト教団出版局 2011
共編著書:『詩を楽しむ ― 東洋の詩・西洋の詩 ― 』 共編著者:近藤裕子 同学社 2008
翻訳 : H・ヘッセ「ゲルトルート」(ヘッセ全集第7巻)共訳 臨川書店 2006
     P・トゥルニエ『人生の四季』 日本キリスト教団出版局 1970
語り継ぎの足跡-1
1990年代前半頃、東京大学教養学部時代に所属していた聖書研究会の後輩から「自分は以前、ウーラントの詩で《昔、2人の友人と共に渡し舟にのったことがあるが、自分以外の2人はもうこの世にいない。今、私は同じ川を一人でわたっているのだが、あの2人の友人がしきりに思い出される。いまもこの舟にはあの2人が乗っている。私は船頭に3人分の船賃を払おう》というような内容の詩を読んだことがあります。その原詩と翻訳を教えていただけないでしょうか」という依頼があった。

早速、勤務先の東洋大学(白山校舎)図書館で調べたところ、レクラム文庫の「ウーラントの古い『詩集』」に収載された原詩「Auf der Überfahrt」が見つかった。亀の子文字表記をローマ字表記に変換のうえ、自らの翻訳を添えて、聖書研究会の指導者である先生を経由して依頼者(後輩)に届けた。

このときの状況を、約30年経過した2021年11月 三浦安子は次のとおり回想している。

原詩と訳詩をさがしてほしい、というご依頼を受けました時の東洋大学図書館(白山校舎)は、現在の東洋大学白山図書館ではありませんでした。1987年に東洋大学は創立100周年をむかえ、創立100周年記念行事の一環として現在の図書館建設に着手しました。このころ、古い蔵書(未整理のもの)が処分されたり、のちには板倉校舎の図書館に移されたりしました。

ウーラントの『詩集』は番号から検索したのではなく、ドイツ文学関係の書籍がおいてあるあたりの棚を、文字通り「しらみつぶし」のように順々に探していましたら、その近くの窓のそばの床に、小型の薄い本が何冊もひもで縛った状態でおいてありました。それは紙質の悪い、レクラム文庫の束で、ひもをほどいて一冊ずつ見ていきましたら『Gedichte』が見つかったのです。その時のうれしさは今もわすれられません。依頼者のご希望をかなえてあげられる、とおもったからです。私はその束ごと司書のかたにお見せして、当該頁をコピ-して、また束を全部お返しして、大急ぎで翻訳の仕事をしました。なにしろ、この仕事はたいへん急がれていましたので。時間と競争するような気持ちでした。

依頼者の「原詩と翻訳」の使用目的は次のとおりであった。依頼者の切なる願いが三浦安子の優れた調査力と語学力に加え強い使命感によって叶えられた。

当時、国家公務員であった依頼者(後輩)は、学生時代の親友(故人)の遺児(息子さん)の結婚式で、この詩を朗読して亡き親友の人となりを新郎新婦に伝えたいと強く願っていた。依頼者の親友は、この詩の「もう一人の友は若く、希望に満ちていた」(第2連)が、「私たちみんなの前を突進していき、戦いと嵐のなかで斃れた」(第3連)とうたわれている「友」のような方だったからと思われる。幸い、この原詩と三浦安子訳は、結婚式の2日前に依頼者の手に届き活用された。

語り継ぎの足跡-2
2005~2006年頃から 東洋大学の学生にウーラントの原詩「Auf der Überfahrt 川を渡りつつ懐う」=「渡し場」を教え始めた。
語り継ぎの足跡-3
2008年 同学社出版の 三浦安子・近藤裕子編著『詩を楽しむ ―東洋の詩・西洋の詩 ―』は、ウーラントの原詩「Auf der Überfahrt 川を渡りつつ懐う」=「渡し場」を、全32作品の一つとして収載しており、執筆者(三浦安子)の承諾を得て、その内容を転載する。


Ludwig Uhland (1787-1862)

Auf der Überfahrt
川を渡りつつ懐う


この川を何年も前に
わたしは渡ったことがあった。
こちらの城は今も夕陽に照らされており
あちらの堰堤では昔のままに水がざわめいている。

むかしこの渡し舟には
わたしと二人の同志が乗っていた。
ああ、一人は父親のような友で、
もう一人の友は若く、希望に満ちていた。

父のような友はこの世では、黙々と活動し、
やがて、やはり黙って世を去った。
若いほうの友は、私たちみんなの前を突進していき、
戦いと嵐のなかで斃れた。

このように、わたしが過ぎ去った日々を、
幸福だったあの日々を思い出そうとすると、
いつもあの同志がいないので淋しくてたまらなくなる、
死が奪い去った、あの大事な同志が。

しかし、すべて友人を結ぶものは、
精神が精神に出会うときだ。
あのひとときは魂が高揚するときだった、
いまもわたしは亡き二人の魂と共にいる。

さあ受け取ってくれ、渡し守よ、この船賃を、
わたしは三人分支払いたいのだ!
かってわたしとともに渡った二人は
まことに高潔な人格の持ち主だった。


Über diesen Strom vor Jahren
Bin ich einmal schon gefahren;
Hier die Burg im Abendschimmer,
Drüben rauscht das Wehr wie immer.

Und von diesem Kahn umschlossen
Waren mit mir zween Genossen:
Ach, ein Freund, ein vatergleicher,
Und ein junger, hoffnungsreicher.

Jener wirkte still hienieden,
Und so ist er auch geschieden;
Dieser, brausend vor uns allen,
Ist in Kampf und Sturm gefallen.

So, wenn ich vergangner Tage,
Glücklicher, zu denken wage,
Muß ich stets Genossen missen,
Teure, die der Tod entrissen.

Doch, was alle Freundschaft bindet,
Ist, wenn Geist zu Geist sich findet;
Geistig waren jene Stunden,
Geistern bin ich noch verbunden.

Nimm nur, Fährmann, nimm die Miete,
Die ich gerne dreifach biete!
Zween, die mit mir überfuhren,
Waren geistige Naturen.

(解説)

 ドイツ文学史の流れのなかで、後期ロマン派、そのなかに「シュワーベン詩派」とよばれるグループがありますが、この詩はその「シュワーベン詩派」の中心的存在といわれるウーラントの作品です。1815年に出版された『詩集』に収録されています。
 表題の原語は「(川を)渡りながら」という意味ですが、「川を渡りつつ懐(おも)う」と訳しました。現代の言葉づかいでは「思う」か「想う」が適切かもしれませんが、この詩の作者は「渡し舟」にのって過去を思い出しながら、自分の胸中の感懐を述べているので、江戸時代の儒者のような「懐う」という表現がぴったりすると思われたからです。

 作者のウーラントは、1787年に生まれ1862年に亡くなっています。これを日本の年号に直すと天明7年生まれで文久2年没となり、廣瀬淡窓(1782-1856)などと同時代人だとわかります。この時期、日本はまだ「徳川の平和(Pax Tokugawana)」が続いていて、1853年のペリーの浦賀来航に至ってようやく激動の幕末が開始することになります。しかし、ウーラントはフランス革命の2年前に生まれ、ナポレオンのドイツ支配の時代にテュービンゲン大学で法律と哲学を専攻し、1811年から弁護士として働く一方、ヴュルテンベルク州議会の民主主義派の議員となり、1848年の3月革命ののちのフランクフルト国民議会に参加しています。18世紀末から19世紀前半の革命の時代のさなかを生きたことがわかります。この間テュービンゲン大学の助教授になりますが、同僚と思想的に対立して地位を失い、私講師の身分に甘んじました。

 この「川を渡りつつ懐う」には、かって二人の同志(Genosse)とともに渡し舟で渡った川を、いま、ただ一人で渡っている作者の深い感懐が述べられています。その一人は父親のような「友(Freund)」で、生前は黙々と(still)活動し、世を去る時も静かに去っていったと第3連で回想されます。もう一人は若く、誰よりも先に前進して、戦いと嵐(kampf und Strum)の中で戦死した、と歌われています。この「戦死した(gefallen)」という表現が、対ナポレオン戦争などでの具体的な戦死を指すのか、比喩的な表現なのか、どちらとも言えませんが、この「若い友」は戦闘的な激しい性格の持ち主であったことが窺われます。

 かって思想信条を共有していた仲間と行動を共にしていたあの幸福な日々。いま、その仲間(同志、友人)たちを死によって奪われた作者は、「幸福だったあの日々を思い出そうとすると/いつもあの同志がいないので淋しくてたまらなくなる」といいます。彼は「しかし、すべて友人を結ぶのは、/精神が精神に出会うときだ」といい、自分はいまも彼ら二人の魂と共にいるのだ、と思い返します。この第5連には、Geist(これはガイストと発音します)という名詞が単数と複数合わせて3回用いられ、geistig という形容詞が第5連と6連にそれぞれ1回ずつ出てきます。Geist という名詞は「精神」という意味と「精神の持ち主」または「霊」という意味があります。そして、複数の形で用いることができるのは「精神の持ち主」、「霊」の場合だけです。原詩の第5連第4行のGeistern はそれゆえ「霊たちと」という意味になります。

 同年の友人はもとより、年長であれ年下であれ、自分と心の通じあう(古い表現を使えば「肝胆相照らす」)友人にこの世で会えなくなるのは淋しいことですが、私たちは友人の魂と語り合うことができるのだと、この詩は確信させてくれます。死者は決して死んではいない。私たちの心に生きていて、いつも話し合うことができ、慰め励ましてくれるのだと。

 ウーラントの作品はバラードにすぐれたものが多く、シューベルト、シューマン、リスト、ブラームス等が作曲しており、民謡のように歌われています。「戦友」「春の想い」などが有名です。