友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
橋本 昇
新設:2012-10-18
更新:2022-10-31
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々

略  歴
(はしもと のばる)

語り継ぎの足跡-1
昭和61年(1986)4月1日付朝日新聞(東京版)夕刊は、「こころ」欄で「ある記事が広げた人間模様」 「ハレーと”心の詩”…余話」 「生ある限り、歌いたい」との見出しで、7年前の「こころ」欄に掲載された記事のフォローとして、橋本昇らに取材した記事を掲載した。その記事を転載させていただく。


「ハレーすい星を待って七十年」という記事がこの「こころ」のページに出たのは、五十四年七月六日付だった。七年近くたって、いまハレーすい星の話題でにぎわっているとき「あの記事の主人公はどうしておられるか」という問い合わせが相次いだ。なかには、記事にある『渡し場にて』という、”心の詩”を中心にした小冊子をつくった人もいる。――ハレーすい星、心の詩をめぐる人模様があった。 (外村民彦編集委員)

五十四年七月の記事というのは、こうだった。

――旧制一高の同窓生だった上田穣さん(元京大名誉教授・天文学)、山岡望さん(元旧制六高教授・化学)と吉田源三さん(元住友電工顧問)の三人は、入学した明治四十三年(一九一〇)の五月、それぞれハレーすい星を見た。昭和四十年前後、三人は「長生きしてもう一度、すい星を見よう」と約束した。しかし上田さんは五十一年八十四歳で、山岡さんは五十三年八十六歳で死去。一人残った吉田さんは、山岡さんの葬儀で「私がハレーすい星を三人分、見ます」と弔辞を述べた。山岡さんが好きだったドイツ詩人ルードビッヒ・ウーラントの『渡し場にて』を思い出しながら――

この詩の結びの「仲間二人はもういないが、船頭さん、三人分の渡し賃をおいていくよ」という言葉が、吉田さんには「ハレーすい星を三人分見よう」という思いとぴったり重なっていたのだ。

この記事に感動した横浜市緑区寺山町の橋本昇さん(六九)は、切り抜いてとっておいた。五十五年五月に妻みつ子さんが亡くなり、その一周忌に「心の詩」と題する小冊子(B5、八ページ)を百五十部ほど印刷、親類や友人に配った。心の詩になっていたウーラントの詩(別掲)が一ページを占める。

橋本さんが最初に『渡し場にて』を知ったのは朝日新聞の声欄(東京)。五十年七月二十二日付で鎌倉市の医師佐藤裕さんが「八月十五日が近づくたびに、私は、忘れがたい思い出を残して戦死した多くの学友をしのんで、この詩を口ずさまずにはいられrなくなる」と投書した。

これには非常な反響があり、さかのぼって三十一年九月にも声欄で話題になったこともわかった。当時中央大学教授(統計学)の猪間驥一さんが「私にとっては長年のまぶたの詩。知っている人は教えてほしい」と呼びかけたものだった。

猪間さんは四十四年七十二歳で他界、妻岸子さん(八〇)が東京・杉並に在住している。猪間さんは、戦争中は、旧満州の新京商公会につとめ、終戦時、軍人や官吏がいち早く日本へ逃げ帰った中で、民間人有力者と協力、無数の北満在留邦人の引き揚げに尽くした。

相模原市に住む堀憂子さん(五六)は、三十年代に”心の詩”についての猪間教授の感動的な一文を雑誌で読んだ。堀さんの父親はミッドウェー海戦で九死に一生を得た人。「まだたくさんの同僚が南の海底に眠っている。私の遺骨は必ずミッドウェー海域に」という遺言で、堀さんは分骨と花束を沈めてきた。「私は生ある限り『渡し場にて』を歌います」と語る。

このウーラントの詩は、五千円札でおなじみの新渡戸稲造博士の愛誦(しょう)詩で、山岡さんら、”ハレーすい星の約束”の三人も、猪間さんも、一高、東大の学生時代に博士から教わったようだ。

こうした”心の詩”をめぐる記事をもとに、橋本さんは感銘を受けるままに小冊子を作ったわけだ。「家内を亡くしてむなしいい思いだったとき、自分を慰めるためでした」と、いまひとり暮らしの橋本さんはいう。”ハレーすい星”の吉田源三さんは五十五年三月に八十八歳で亡くなり「三人の約束」は果たせなかった。「そうですか。でも三人はきっと、天界でそろってハレーすい星を見ていると思いますよ」 橋本さんは感慨深げだった。


『渡し場にて』    L・ウーラント

幾年前かこの川を 一度わたったことがある
いまもせきには水よどみ 入り日に城は影をひく

この小舟にはあの時は 私と二人のつれがいた
お父さんに似た友と 希望に燃えた若いのと

一人は静かに働いて 人に知られず世を去った
もう一人のは勇ましく いくさの庭で散華した

幸せだったその昔 しのべば死の手に奪われた
大事な友の亡いあとの さびしい思いが胸にしむ

だが友達を結ぶのは 魂同士のふれあいだ
あの時むすんだ魂の きずなが何で解けようぞ

渡し賃だよ船頭さん 三人分を取ってくれ
私と一緒に二人の みたまも川を越えたのだ

           (猪間 驥一 訳)