友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
髙槻 貞夫
新設:2013-05-01
更新:2022-10-31
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々

略  歴
(たかつき さだお) 1932年(昭和7年)~2019年

昭和7年(1932) 愛媛県宇和島市で誕生
愛媛大学教育学部卒業
中学校教諭を経て愛媛大学教育学部で英語教育の講座を担当
平成9年(1997) 愛媛大学を退職し、愛媛大学名誉教授
語り継ぎの足跡-1
昭和31年(1956)9月13日付朝日新聞「声」欄の猪間驥一の投書を読んで感銘を受けた髙槻貞夫は、中学校教師になって3年目で、初めて3年生の担任になって張り切っていた。そこで、担任のクラスで猪間驥一の投書を読んだ。
すると、生徒はこころを動かし、皆で手分けして、学校の図書室、市立図書館、自宅の書棚などの訳詩集を探した。しかし、残念ながら求める詩を見つけることが出来なかった。

昭和32年(1957)7月 猪間驥一は前年の朝日新聞への投書がもたらした反響などを一冊の本にまとめ、題して「人生の渡し場」を三芽書房から出版した。この書籍「人生の渡し場」を髙槻貞夫が買い求め、担任クラスの生徒にも内容を伝えると共に、著者・猪間驥一宛に次の内容の手紙を書いた。①生徒と詩を探したが役に立てなかったこと、②自分も弟を投書が載った年に亡くしたこと、③生徒と一緒に猪間驥一のご子息の冥福を祈っていること。

この手紙に対し、髙槻貞夫は猪間驥一から美しい文字で書かれた長文の返書を受け取った。そこには、次のことが記されていた。①生徒と共に詩を探し求めたことに対するお礼、②亡き弟へのお悔やみと髙槻貞夫への励まし、③生徒の皆さまによろしく。

髙槻が猪間から書簡と一緒に受け取った猪間驥一著『人生の渡し場』チラシによると、同書が現在は選定事業が終了している「日本図書館協会選定図書」であったことがわかる。
語り継ぎの足跡-2
平成10年(1998)10月から平成11年(1999)3月まで、髙槻貞夫は「愛媛新聞」学芸欄の随筆コラム「四季録」に毎土曜日担当として25回にわたり随筆を掲載した。そのうち最終回の1999年3月27日の随筆は「人生の渡し場」と題して、ウーラント原作「渡し場」の詩、猪間驥一の投書、中学校の担任生徒と共に図書館などで詩を探したが見つけ出せなかったこと、そして、髙槻貞夫と猪間驥一との往復書簡に関するものであった。その最終回の随筆「人生の渡し場」は次のとおり。

    人生の渡し場
                 
 五十年このかた、うろ覚えの外国の詩が心から離れない。どなたかご存じの方はあるまいか――と始まる文章が新聞の投書欄で私の目を引いた。その詩とは――
 渡し舟に乗って川を越そうとしている老人がいる。何十年か前、彼は親友と二人でその渡しを渡ったことがあった。周りの風景は今も変わらぬ中で、老人は記憶の中の亡友の面影を懐かしんでいた。
 ――「着きましたよ」と言う船頭の声でわれにかえった老人は、二人分の渡し賃を払う。「船頭さん、取っておいてください。お前さんにはお客は一人としか見えなかったろうが、私は連れと一緒だったつもりだから」と言って――。

  投書の主は、これを少年雑誌か何かで読み、大きくなって外国語がわかるようになったら読み直そうと思った。が、この詩に会えないまま、子を失い友を失うこと多く、老来ますます会いたい気持ちが募ってくる、というのである。
 そのとき、私は中学教師になって三年目、初めて三年生の担任になって張り切っていた。クラスでこの投書を読んだところ、皆で手分けして探そう、ということになった。学校の図書室、市立図書館、自宅の書棚などの訳詩集を探したが、無駄だった。
 それからしばらくして、一冊の本が世に出た。著者は先の投書の主。「人生の渡し場」と題するその本から私が知ったのは――

 投書に対して多くの反響があり、著者はついに求める詩「渡し場」(ドイツ浪漫派詩人ウーラント作)に再会したこと。詩の全文。著者は大学教授(経済学)で、東大生の愛息がある日突然、父の目の前で動脈を切って自殺したこと、であった。さらに、著者が物事に丁寧で、ユーモアと気骨を併せ持つ個性あふれるひとであることも、収録されている学園・学生などを語った文章から分かった。
 これらのことをクラスの生徒たちにも話した私は、著者に手紙を書いた。――生徒と詩を探したがお役に立てなかったこと、私もその年に弟を亡くしたこと。そして、ご子息のご冥福を生徒とともにお祈りします、と書き添えた。
 すると、美しい文字で書かれた長文の返書をもらった。――詩探しに対するお礼、亡弟へのお悔やみと私への励まし、「生徒のみなさんへよろしく」とあり、最後に、ご自身の出身校、第一高等学校(現東京大)寮歌の第四節が書かれてあった――

橄欖(かんらん)かほる丘を去り
山の都とへだつれば
かたみに面は知らねども
同じ思ひの通ふかな
(一九九九・三・二七)


平成11年6月、髙槻貞夫は「愛媛新聞」の「四季録」連載の25篇に、他からの転載2篇を加え、「渡し場の詩」とした書籍を自己出版した。収載の随筆は、何れも、著者・髙槻貞夫がそれまでの人生で出会い交わった人びと、親しき人びとに対する思い~ウーラントが「渡し場」の詩の中で抱いたのと同じ懐かしい思い~を綴ったもので、同じ「人生の渡し場」に乗り合わせたということから、書籍名に「渡し場の詩」を選んだという。

髙槻貞夫著『渡し場の詩』表紙
髙槻貞夫著『渡し場の詩』表紙


(株)大阪洋書が同社Webサイトで髙槻貞夫著『渡し場の詩』の一編「人生の渡し場」を紹介している。