友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
星野 四郎
新設:2012-10-14
更新:2022-10-31
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々

略  歴
(ほしの しろう)     ~1981年(昭和56年)

昭和24年(1949)4月 桜丘高等学校教諭(豊橋市)
昭和31年(1956)4月 同学監
昭和33年(1958)4月 同教頭
昭和34年(1959)4月 同副校長、北校男子部牛川校舎に移る
昭和37年(1962)4月 同教育研究所長
昭和42年(1967)4月 同図書館長
昭和43年(1968)4月 同教育研究所長兼図書館長
昭和44年(1969)4月 同教育研究所長
昭和44年(1969)11月 桜丘学園理事兼桜丘高等学校長
昭和47年(1972)7月 同校長退任
昭和48年(1973)8月 同教育顧問
昭和50年(1975)5月 桜丘高等学校退職
昭和50年(1975)6月 桜丘学園非常勤理事兼教育顧問

昭和49年(1974)3月30日 NHKラジオ第1「渡し場のメロディー」に出演
昭和56年(1981)12月 永眠(72才)
語り継ぎの足跡-1
昭和31年(1956)9月13日発行朝日新聞(東京版)の「声」欄に掲載された、猪間驥一の投書「老来五十年 まぶたの詩」を読んだ後の、星野四郎個人および桜ヶ丘学園を含めての交流


内容は、本ページ後段で記す、昭和49年(1974)3月30日、NHKラジオ第1で、星野四郎が語る「渡し場のメロディー」の概要と重複するので、そちらを参照下さい。

語り継ぎの足跡-2
昭和48年(1973)9月12日付朝日新聞(名古屋版)「声」欄に、古田かね子の『十余年前の「渡し場」記事の切抜きを紛失したので、「詩を教えて下さい」』との投書は反響を呼び、同9月15日付朝日新聞(名古屋版)は「今週の声から」欄で『反響を呼んだ友情の詩「渡し場」』のタイトルで特集を組み、星野四郎の投書が最初に次のとおり紹介された。


豊橋市・星野四郎さん(学園理事、64歳)は「渡し場」との出会いと追憶を……

古田さんのご記憶にあるのは、「老来五十年、まぶたの詩」(31年9月13日の「声」欄=東京)と思われます。投書の主は当時中央大教授の故猪間驥一氏で、その年の「敬老の日」に教授は満六十歳になられたのでした。その後、教授が出版された「人生の渡し場」と題した著書には、ウーラントの原詩、ヒューマンズ夫人の英訳詩、それぞれの口語訳、文語訳も載っていますが、教授と小出健氏との共訳の文語訳は次のようなものです。古田さんの「声」に接して、教授と私との出会いを懐かしく思い出しながら、今は亡き教授の温かい人柄をしのんでいます。

年流れけり この川を
ひとたび越えし その日より
入り日に映ゆる 岸の城
(せき)に乱るる 水の声

同じ小舟(おぶね)の 旅人は
二人の友と われなりき
一人はおもわ 父に似て
若きは希望に 燃えたりき

一人は静けく 世にありて
静けきさまに 世をさりつ
若きは嵐(あらし)の なかに生き
あらしの中に 身を果てぬ

幸多かりし そのかみを
しのべば死の手に うばわれし
いとしき友の 亡きあとの
さびしさ胸に せまるかな

さあれ友垣(ともがき) 結(ゆ)うすべは
霊と霊との 語らいぞ
かの日の霊の 語らいに
結びしきづな 解けめやも

受けよ舟人 舟代を
受けよ三人(みたり)の 舟代を
二人の霊と うち連れて
ふたたび越えぬ この川を



語り継ぎの足跡-3
昭和49年(1974)3月30日、NHKラジオ第1で、星野四郎が語る「渡し場のメロディー」が放送され、その再放送が昭和51年(1974)4月19日のNHKラジオ第1「趣味の時間」でに行われた。

この再放送を松田昌幸が録音し 文字情報としたものが、松田昌幸の往時のWebサイト『「渡し場」が世に出るまで』に載っていた。その要旨を箇条書きにすると次のとおり。


1.
常々、人生とは出会いであると思っていたが、昨秋、ある新聞の「声」欄の投書が目についてから、一層この感を深くした。

2.
その投書は「渡し場の詩」を教えて下さいという、古田かね子のもの。10余年前の猪間驥一による「声」欄投書「老来50年」と古田かね子の投書の内容を紹介。

3.
古田かね子の「声」に接し、故猪間驥一と私(星野四郎)との出会いを懐かしく思い出しながら、今は亡き猪間驥一の暖かい人柄を偲んでいる。

4.
「渡し場」の楽譜はNHKコレクションにもなかった。猪間驥一は欧州研修旅行の折に、ドイツはハイデルベルクを訪ね、地元新聞社の協力を得て楽譜を求めたが見つからなかった。しかし、幸、ハイデルベルクのミーリッシュとハウスマンが各々作曲して呉れた。そのうちミーリッシュ作曲のメロディーが放送で流された。

5.
昭和31年(1956)9月13日の「声}欄に掲載された猪間驥一の投書内容と反響(週刊朝日掲載)を紹介

6.
「学生週報」昭和31年9月第5週号掲載の木村毅著「名教授列伝(25) 国際人教授 新渡戸稲造」の最初に「渡し場」が紹介されている。

7.
猪間驥一から「渡し場」の原詩と訳詩を送って貰ったのが縁で、昭和31年12月8日に星野四郎の学校(桜ヶ丘高等学校)への猪間驥一の訪問となり、その後猪間驥一による全校生徒への講演などの深い付き合いとなった。

8.
桜ヶ丘高校では日常の生活信条として、誠実、努力、奉仕、友情の4つを目標に指導し、生徒手帳にも記載していたので、昭和32年度から数年間「学生手帳」に「渡し場」の詩を載せた。

9.
猪間驥一が、名曲「埴生の宿」本来の意味での訳詩を添えて、「幸福な家庭は家族の汗で築かれる」という教訓を学生に説いた。