友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
木村 毅 (付 太黒薫)
新設:2012-10-14
更新:2021-09-01
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々

略  歴
(きむら き) 1894年(明治27年)~1979年(昭和54年)

明治27年(1894)2月12日 岡山県で誕生
大正6年(1917) 早稲田大学英文科卒業
昭和53年(1978) 菊池寛賞受賞(第26回)
明治文化研究者として一時代を画し、文化交流に在野からいくたの貢献をし
常に時代の先導的役割を果した」として受賞
昭和54年(1979) 9月18日永眠

<解説>
木村毅は、作家、評論家、明治文化史の研究家として活躍し、多数の著作を残した。
若き日の松本清張少年が、木村毅著『小説研究十六講』を肌身離さず読みふけり、
一生涯の座右の書としたとも伝えられる。
木村毅は、大正末から昭和初めに巻き起こった円本ブームの創案者としても知られる。
<参照Webサイト>
 Wikipedia「木村毅」
 Webサイト「岡山の街角から」より「松本清張と木村毅」
語り継ぎの足跡-1
旺文社刊「学生週報」1956・9・29(昭和31年)9月第5週号30~31ページ掲載
木村毅著「名教授列伝(二十五) 国際人教授 新渡戸稲造」


ドイツにウィーランドという詩人がある。いわゆるワイマール・グループにぞくし、ゲーテよりも、ちょっと先輩だ。

その詩に「わたし船」というのがあるのだ。ある遊士が多年異郷に流寓したのちに、故郷にかえってくると、村境の河では昔ながらの爺やが、わたし船をあやつっている。
それにのると、彼には小学校時代のことがいろいろと思い出されてきた。りんごのような赤い頬をしたAやBやCなどの、友だちの顔、顔また顔!

そのなかでも特に親しかったフレデリック(あるいは他の名であったかもしれない)のことを回想して、なつかしさに絶えず、黙想にふけっているうちに船はいつの間にか対岸についた。
彼は渡し賃をはらって、上陸しようとすると

「旦那、これは多すぎます」と、渡し守がつりを返す。
「いや、僕は、いま幼な友だちと二人でのっていたのだから、それは取っておきなさい」
といって、村にむけて歩き出した。

そういう内容なのだ。私は、じつは、この詩をよんだことがない。多年、心がけていながら、われわれの手のとどくところには、ウィーランドの詩は見つからない。

しかし、なぜ、この詩があることを知っているかというと、今から四十年ほど前、新渡戸博士が第一高等学校の校長のとき、倫理の時間に、この話をした。私はそれを又ぎきしたのである。その講義に出て、のちに医学博士となり、病院長となった人が、
「高校、大学の講義で、あとあとまでも心にのこって役に立ったと思うのは一つもない。ただ、新渡戸博士からきいたウィーランドの詩のこの話だけが時々、おもい出されては、今日も心をあたためてくれる」といった。

博士は又、大学で植民史をうけもったこともある。年代の数字など、全く無頓着で、早くいえば出たらめであったから、私の友人などふんがいしていた。
その友人はのちに満鉄に入ったが、「実地にあたってみて、役に立ったのは、新渡戸博士の講義だけだ。今になって、あの人のエラさがわかった」と、つくづく言っていた。

新渡戸博士とは、そういう講義のできる人であった。それは一科の学問の講義以上のもので、人間をつくる講義だ。

~以下省略~

太黒薫
(某医師?)
上記文中に「今から四十年ほど前、新渡戸博士が第一高等学校の校長のとき、倫理の時間に、この話をした。私はそれを又ぎきしたのである。その講義に出て、のちに医学博士となり、病院長となった人」とあるが、「医学博士・病院長」は誰なのか?

本サイト按針亭管理人は「太黒薫(おおぐろ かおる)」であると推定している。その根拠は、次のとおりである。

山岡柏郎(望)著『向陵三年』のうち「橄欖」章「霞の如く」節(P.294-304)によれば、新渡戸稲造が第一高等学校長を辞任した約1ヶ月後の大正2年(1913)5月27日に、新渡戸稲造は「一高基督教青年会」主催の卒業生送別会(晩餐会)に招かれ、挨拶の中で「渡し場」の詩を出席者20数名に紹介した。山岡望は送られる卒業生の一人として同期の矢内原忠雄らと共に出席し、その状況描写は、新渡戸稲造の授業「倫理」では「渡し場」の話を聴いたことがないと思わせるほどの表現となっている。

そこで、某医師は、木村毅が当該記事執筆の昭和31年(1956)から40年遡った1916年頃(1913年)に、山岡望らと共に新渡戸稲造の話を聴いた「一高基督教青年会」関係者であると推定し、「向陵三年」に登場する「一高基督教青年会」に所属した人物名、医学博士、病院長でWeb検索すると、「太黒薫(おおぐろ かおる)」に辿り着く。

山岡柏郎(望)著「向陵三年」のうち「橄欖」章「風の如く」節のP.285によれば、 山岡望は一高入学直後に、一高基督教青年会の委員をしていた3才違いの兄(信夫)の用を帯びて「太黒」を訪ねて会い、「むしろ親切でやさしい人」と感じ、一高基督教青年会の新入会員歓迎会でも会っている。

太黒薫は、明治24年(1891) 広島県で誕生、大正元年(1912)7月 第一高等学校を卒業、同年9月東京帝国大学医科大学入学、大正6年(1917) 卒業、大正7年(1918) 欧米留学、大正10年(1921) 文部省留学生としてパリのパスツール研究所にいたときソルボンヌ近くのホテル「セレクト」の娘と結婚、大正11年(1922) 夫人を伴って帰国後医学部第1期生を迎えたばかりの北海道帝国大学医学部教授(医化学)、昭和8年(1933) 退官、昭和9年(1934) 「太黒診療所」創設(昭和30年太黒病院に改称、現在は太黒胃腸内科病院)初代院長、昭和47年(1972) 永眠

夫人(マダム・マチルド・オオグロ)は小樽商大でフランス語を教え、20才の時に来日以降53年、「私は道産子よ」が口ぐせであったが、昭和50年(1975) に亡くなったという。

<参考としたサイト・資料>
☆「医療法人社団 太黒胃腸内科病院」公式サイト「病院概要・アクセス」
☆本ページ新設時(2012-10-14)に存在したが、2015-8-10現在は閉鎖されている
小樽商科大学同窓会(翠会)アーカイブズのうち、次の2つのページ
1.翠丘アーカイブス 太黒(オーグロ)マチルド
2.鎌倉啓三「マダム・マチルド・オオグロ」<小樽商大同窓会報「緑丘」74 1993年61-63頁>
☆太黒薫・マチルド夫妻が写っている写真を掲載している次の文献
藤田博美他「一枚の写真から:レオノール・ミハエリスの札幌」
<生化学 第84巻 第11号, p.954-962, 2012>