友を想う詩! 渡し場
魅せられ語り継ぐ人々
北澤 種一
新設:2012-10-14
更新:2022-10-31
ウーラント原作「渡し場」を語り継ぐ人々

略  歴
(きたざわ たねいち) 1880年(明治13年)~1931年(昭和6年)

明治13年(1880) 長野県諏訪郡四賀村飯島(現諏訪市)で誕生
明治34年(1901) 長野師範学校卒業、長野県北安曇郡大町尋常高等小学校訓導
明治39年(1906) 東京高等師範学校卒業し、福井師範学校教諭
明治43年(1910) 東京女子高等師範学校訓導兼助教授
明治45年(1912) 東京女子高等師範学校教授兼訓導
大正9年(1920) 東京女子高等師範学校教授兼東京女子高等師範学校附属小学校主事
大正11年(1922)11月から大正13年(1924)12月まで、教育学および教授法研究のため文部省在外研究員として英米独滞在、特にドイツ労作教育の理論と方法を習得
帰国後、附属小学校に労作教育をとりいれた大正・昭和期の労作教育先駆者
昭和6年(1931)12月9日 永眠(51才)
語り継ぎの足跡-1
雑誌「少女の友」大正2年(1913)8月号(實業之日本社刊)72~73ページ掲載
東京女子高等師範学校教諭・北澤種一著「人(ひと)の情(こころ)
<注>原文に施されたルビは、すべて省きました

オイ!船頭さん、
最早岸についたか。
これ三人分の賃銭を
受取って呉れ船頭さん。
お前の目には見えなかったらうが、
客は私の外に尚二人あったのだ。

これは独逸の詩人ウーランドといふ人が旅行中ラッカル河を渡った時に、数年前に親しき友二人と共に此河を渡った時の事を想ひ起して作った詩の終りの句である。ウーランドは友情に厚い人であったが二度目に此河を渡った時には、最早前に一緒に同船した親友は二人とも亡き人となって居ったのである。それで今は只一人で此河を渡るのであるが、河の流れや、河畔に立つ古城が依然として夕陽に聳えて居る有様や、河中にあるヤナなどが昔と少しも変らずにある様子や、さては渡し船の様子などがありし当時と少しも変らないので、思はず昔馴染の彼の二人の友を追懐するの情に堪へず、窃かに亡き二人の友を惜しみ、せめてもの心慰に獨り心の中で彼の二人の友と会話をしたのであった。

そこで実際は死んで了った二人の友ではあるがウーランドに取っては生ける親しき友と思ふより外なく、種々の昔の交りを想ひ起して居ったのに、忽ちにして船は彼岸に着いて楽しき追懐は破られたのである。ウーランドはその果敢なさを嘆息して思はず、「最早岸に着いたか」といふ声を漏らしたのであった。而もその想ひ出には無限の情味を感じて居って嬉しさの余り「三人で今度お前の厄介になって此の河を渡ったのだ」といふ心持を表はすために三人分の船賃を払ひ、懐しさに堪え兼ねて、後を見返りしてその場を立ち去ったといふことである。

船頭の方でも「如何したんだろう」と、不思議の眼を見張って居ったのが何とはなしにその客に対する床しき情を以て只茫然として見送るのであった。

げに眞の友は吾等の生命の一部である。よしその肉体は死んで了っても、よしその身は千山萬里を隔てたる異域の人となっても、眞の友は何時まで経っても常に吾が心の中に立ち交りて、我と共に生き我と共に語るものである。而も此の温情は発しては何のゆかりも無い他の人に対する余徳となり、余慶となって来るもので、ラッカル河の船頭の如きも、その余沢にうるほったのである。

 美しきは人の情なるかな。


<解説>

冒頭のウーラント作「渡し場」詩文紹介部分は、<参照>として下に掲げる新渡戸稲造著「世渡りの道」での「渡し場」詩文紹介最終部分に極めて似ている。双方とも實業之日本社刊であり、北澤種一は先行する新渡戸稲造の「渡し場」紹介文を下敷きに執筆したと思われる。

この雑誌記事を見た1少年(猪間驥一)が、40有余年後、還暦を迎える直前の昭和31年(1956)9月13日付朝日新聞「声」欄に「老来50年 まぶたの詩」を投書した。この投書は、ドイツ詩人・ウーラント原作「渡し場」の詩を掘り起こし、公の場所に登場させることとなった。それ以後、20年ほどの周期で、話題提供の大きな波が繰り返し寄せ続けている。
参  照
新渡戸稲造全集第8巻、1970年教文館刊「世渡りの道」から、
「同情の修養」の一節、(333~334ページに掲載)


同情と親友に就て思ひ出さるゝのは、ウーランドの詩である。氏は独逸の政治家であると共に一代の大詩人で、六十余年前に最も持て囃された人である。氏の叔父に牧師になった人がある。又氏と同窓で法律を攻め、後に一年志願兵となり、ナポレオンの戦争で戦死した親友がある。氏がネッカル川を渡るとき、この親しき二人の死を想出して詠じた詩は、実に親友に対する熱情を披瀝したものである。

顧みれば数年前曾て一度この川を渡ったことがある。
河畔には当年の古城が依然として夕陽に聳えて居る。
河上にはヤナが昔と変らず淙々として響いて居る。
その時には我の外に二人の友が此の舟に座し共に此河を越えた。
一人は老人で静に世を渡り後ほど静に世を去った。
一人は血気熾(さかん)な青年で、嵐の中に身を処して遂に嵐の為に倒れた。
有りし当時を追懐すれば、何時も二人の面影が現はれる。而も此二人は死の手の為に我より裂かれたるものなるに……
否、否、我が二人と交りて、友よ、友よと親しんだ睦さは、肉の交りにあらざりし。心と心との友誼であった。魂と魂との交であった。
霊的親交なりし上は、ヨシ今肉体はあらなくも、尚親しみは変るまい。
オイ船頭、モ-舟が着いたの-。コレ、三人分の賃銭を払ふから納めて呉れ。
お前の目には見えなかったであらうが、客は我の外に尚二人あった。

親友に対する斯かる切なる情は、自然に磨かれて四囲の人々に対しても、温かき同情を表はすやうになる。その情は決して親しき二人に止まるものではない。ウーランドの心中を更に知らない船頭まで、その恩恵に浴する様なものである。

北澤種一の最期
北澤種一は、突然の体調不良にも拘わらず、講演の約束を果たすことを重視したため、命を縮めてしまったようだ。北沢正一編「父北澤種一追悼録」に、北沢種一が亡くなる直前の様子を、概ね次のように遺族が記している。


昭和6年(1931)12月6日開催予定の諏訪養育会での講演のため、12月5日夕方上諏訪に着いて牡丹屋に投宿、実家へ立ち寄る時間がないので、弟らが用件をもって宿を訪ねたが、隣の座敷で教育会の先生方と元気よく話す声を聞いただけで面会できなかった。

夕食後、宿の温泉に入ったがぬるく暖まれず風邪を引いた。熱が出てアスピリンを服用、翌6日9時から諏訪高等女学校で講演を始め午前中は満場の聴衆にも大体話が聞こえたが、午後から苦しくなって声がよくでなかった。宿に帰って医師を招いて貰い、夜の慰労会を欠席して臥床していた。

周囲から二三日の静養を勧められたが、翌7日朝約束の宮前小学校(川崎)での講演を重んじ、夜十二時頃発の夜行で新宿に着き、自動車で一旦自宅に戻ったときは、白いマスクをかけ顔色が悪く洋服のままゴロリと横になってしまった。少し経って「川崎の小学校へ行かねばならぬ」というので、家人が38度の熱があるので延期して貰うことを勧めたが、1時間身体を休めるため、1時間遅れるとの電報を打って、9時頃家を出た。、午後3時頃に思ったより弱った風もなく帰宅した。早速医師を迎えたところ、風邪で少し無理をしているから暫く安静にするようにとことで、7日の夜は苦しむ様子もなくなかった。

8日早朝から容体が悪くなり直ちに医師に手当をして貰い、更に同郷の信頼していた医師に診て貰ったところ、同じ見立で暫く安静ということであった。9日朝は熱も下がって気分もよろしいようであったが、しばらくあって「何だか変な気持ちがする」というので見ると、顔から体に脂汗がいっぱい、直ちに医師を迎えたところ、朝とは急に容態が悪くなったといって注射など手当を尽くして貰った。しかし、夕方6時頃に永き眠りについてしまった。死亡診断は狭心症であった。

北澤種一と伊藤長七
諏訪にとっては、前年(1930年)に亡くなった伊藤長七(旧東京府立五中初代校長)に続いて、偉大な教育者を失ってしまった。矢﨑秀彦著 「寒水伊藤長七伝」 147ページに、北澤種一、伊藤長七らが写った写真が載っている。
矢﨑秀彦は 上掲「寒水伊藤長七伝」64~65ページで タイトル「北澤種一君の金襴簿に書き与えた文」にて 次のとおり記している


長七は明治31年2月、前年入学してここで2年生になる同郷の秀才北澤種一(諏訪市四賀飯島出身)に,、卒業を前にして、その金襴簿(親友の氏名住所等を記した帳簿)に所感を書き与えている。この金襴簿は現在見あたらないとのこと(近親の北澤実氏)であるが、この名文はよく知られ、しばしば引用されてきた。しかし多くは部分引用なので、ここでは現在知られている限りの全文を掲げる。

鵞湖の東の郷嘗て幕末の志士いしがきを出す 君と僕と生を此郷に享け碌々徒に無為にして終らば先人に対して恥づるなからんや 居常泛々として軽薄の潮流に漂へる輩如何で世道人心の改造に任ずるを得んや 天の吾に与ふる所以のもの豈偶然ならんや 世を挙げて吾を譏る 吾関せず 世を挙げて我を褒する 我関せず 由来俊傑の士素より天を相手にして人を相手にせざればなり 校風を造る人たれ 校風に造らるる人たる勿れ 時勢を作る人たれ 時勢に作らるる人たる勿れ 僕もと狂介性行修らず只一片邦家に尽くすの意気は自ら期する所敢へて恒人に後れず 願ふは短褐孤剣天下に放浪し教育革新の陣頭に斃れん哉
  北澤君   明治31年3月  寒水狂

この文も甚だ有名で、「校風を造る人たれ 校風に造らるる人たる勿れ 時勢を作る人たれ 時勢に作らるる人たる勿れ」などは、長七自身の生涯自戒の言葉であったこというまでもないが、北澤以外にも多くの青年の座右の言葉となって激励した。


伊藤長七は 長野師範学校機関誌 「学友」 明治35年5月第13号に投稿した「小諸を去る辞」の最終に近い箇所で北澤種一について 次のとおり記している。


(略) 吾友宮沢国粋兄及北沢種一兄の客書を得たり。 (略)
北沢君は吾と同郷、心情高潔 気骨稜々として、古人の風あり。まことに、教育会中 得易からざるの好漢。今や師範の新卒として年少気鋭磊々の雄心を持して、北安の大町にあり。此日寄せしところの君が書中、吾友松沢兄等と木崎湖畔に斯道を画策するの福音を聞くを得たり。あはれ うれしき哉 故人の情。今や吾れ車馬雑踏の巷に立ちて、街頭に紅塵を呼吸しつゝ、晨夕都門の軽薄に、耳目を犯さるゝの際 涼風一陣吾脳裡の塵垢を洗除して、涓々の清泉を掬するの想あらしむるものは、実に郷国の人の情けなりけり。あゝ信濃の江山。(略)

北澤種一の略伝
(矢﨑秀彦による)
矢﨑秀彦著 「寒水伊藤長七伝」65~66ページに、北澤種一の略伝が、次のとおり記されている


彼は傑出した教育者。その略歴は、長師を卒え、大町小学校訓導として1年御礼奉公の後、東京高等師範学校には、ごたごたして遅れた長七より先に英語部に入学。在学中から原書で教育・哲学・心理学の書を読み研鑽するとともに、スポーツを好み柔道を行い、またボートの選手となり、隅田川で練習の際に利根川を下って銚子まで遠漕など試みる。現上田市出身の五島慶太(後の経済界の大立者)などと同期の卒業。

福井師範教諭となり、英語のほか心理学・教育学を教えて4年。抜擢されて、東京女子高等師範学校助教授となる。ドイツ語を東京外語学校の夜間部に入学して学び卒業するなど努力し、機関誌「児童教育」を発行し、新教育の先駆者として全国的に知られる。大正11年教育学教授法研究のため満2年間イギリス・ドイツ・アメリカ3国へ文部省在外研究員として留学。帰朝後は東京女子高等師範学校の教授となり、また著作や講演により作業教育の普及に努めた。女高師付属高等女学校主事となり女子中等教育に新生命を鼓吹した

昭和6年12月6日、諏訪教育会の招きに応じ「作業教育」について5時間もの長時間講演をし、途中風邪のため声も出ない程になり39度の高熱となったが、川崎市の学校に講演を約束してあるというので、夜行列車で帰宅。午前7時、夫人の延期の申し出を振り切り講演に出向き途中で中断して帰宅、病床についたが9日死亡されてしまわれた。時に52歳であった(「列伝」) まさに殉職の最後であった。

「教育の理論界に、実際界にまた行政制度の方面に三者を兼備し、しかも渾然連絡、其深さに於いて十分なるは、我が国教育界、氏を措いて他に之を見る事が出来ぬ」(「列伝」)

<注> 「列伝」は 信濃教育界 昭和10年6月発行の「教育功労者列伝」の略